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なぜ人生の最後の時間を家族から離れて体を縛られながら過ごすことになるのか
誰も人生の最後を行動の自由を奪われながら迎えたいとは思っていない。
家族と会う時間が制限されたまま、病院で見慣れない白い壁を見ながら過ごしたいとも考えていないだろう。
なぜそうなってしまうのか、当然医療従事者がそれを望んでいるわけでもない。多数の高齢者が行動制限を受けている病院の光景は気を滅入らせるものだ。
家族がそれを望んだからだろうか?行動制限への同意はしたかもしれないが、実の肉親が拘束されていて不快にならない人は少数派だろう。もちろん、仕方ないからと納得している人はいるかもしれないが。
本人の意思決定能力が認知症によって一部障害されていること
多くの医師が超高齢者医療を苦手としていること
そして
家族が医療に過剰な期待を抱くこと
この3要素が組み合わさって人生の最期は誰も望んでいないかたちになってしまう。
認知症による意思決定能力の障害にはグラデーションがある。
少し物忘れがある程度で、記憶が続く範囲で繰り返し説明すれば明確な意思表示ができる場合
注意障害、記憶障害などが組み合わさって、意思は表明できるが説明内容は不十分にしか理解できない場合
発語がなく、頷きさえもできず、意思決定能力を完全に喪失している場合
に別れる。
問題は部分的に障害されているケースで、ある程度認知症の診療経験がないとこれはわからない。
しかし肺炎の治療中には認知機能は更に低下するが、本人の意思を優先する形で、延命を望むような話し方をしてしまう医師は少なからずいる。
そうなれば延命を望む。
実際、医師の話し方で人生の最期は大きく変わってしまうのだ。
一方で、延命を促すような話をしながらも、通常の内科医は高齢者医療を苦手とする。
高齢者医療では、薬の副作用が出やすく、点滴、胃瘻、中心静脈栄養、経鼻胃管、心電図モニターといったデバイスはどれも有害事象のリスクを高めるし、せん妄も起こる。そのため行動制限が必要になることが多いがこの行動制限も入院期間の延長と予後不良に繋がる。
そのため大変な労力(とお金)を使っても結局療養型病院に転院し点滴をしながら最期を迎えるしかないことがしばしばある。
頑張らなかった場合の方が家族と一緒に過ごせる時間も、手足を自由に動かせる時間も長いかもしれないのだけど。
最後に、高齢者医療に対して、ご家族が過剰な期待を抱いていることが多い。医師のほうもその期待に応えるべく頑張る傾向がある。
それは素晴らしいのだが、正直高齢者医療に関しては期待しているようなことはできないことが多い。
まず入院自体が本人に有害なので、時間制限がある。あまり入院時間が長いと家で暮らすことが難しくなっていくのだ。
そして複数の臓器を一斉に良くするような治療は残念ながらほとんどない。そして認知症や嚥下障害に対してできることは本当に地味なことばかりで、ややマシになることを複数組み合わせて、入院前よりちょっと悪いけどなんとか元の施設に帰れそう、とか、入院前より衰えたけど訪問介護を入れればなんとか家でみれなくもないかな、くらいにするのが精いっぱいだったりする。
だからもう最近僕は超高齢者に対しては、肺炎が良くなった後は、今よりは具合が良くなることは多いけど、入院する前に比べると足腰や飲み込み、認知機能が衰える傾向にあります。だから今の時点で家で一緒に暮らすのが厳しければ、家以外の場所で暮らすことも選択肢になります、と話すことにしている。
本当は家で点滴も何もせずに食べたいものを少量食べながら最期の一週間を家族に囲まれて過ごすことが一番濃密で素敵な時間になるのではないかと思う。しかしそれを実践するための文化的・法的な基盤はまだ十分確立されているとは言えない。