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食べられなくなったら天井を見て余生を過ごすことになるがデフォルトの選択肢になっている。
高齢者が病気の進行と共に安全な経口摂取が難しくなる、というのはよくあることだ。
実際、多くの病院で、診断群分類別患者数等(診療科別患者数上位5位まで)の項目から誤嚥性肺炎のデータを見てみると、誤嚥性肺炎患者の平均年齢は85歳くらいで、転院率は20%くらいになっている。
これは市中病院で働いてきた実感とも良く合致する。
誤嚥性肺炎で入院した患者さんの5人に1人くらいがどうしても経口摂取ができず、点滴を続けながら長期療養型病院に転院する。
長期療養型病院で人生の最後を過ごすことになるなるわけだ。
そこではベッドの上で、天井を見ながら過ごすことになる。
だから本人が家族と過ごせる時間は、皮下点滴で自宅に退院した場合と比べて、もしくはひょっとすると、食べられる範囲で食事をとるようにして自宅に帰った場合よりも、短くなる可能性が結構あるわけだ。
でも今のところ、家で看取るために退院する選択肢は、基本的に家族が希望しないことが多い。
多分、点滴が水分、塩分、糖分と少量の電解質を補給するだけの方法であることをあまりうまく伝えることができていない部分はあると思うし、老衰を看取るためには訪問診療医を見つけなければならないハードルもある。
この、本人が周囲とかかわりを持てる時間をなるべく長くすることが医療の役割として存在すると思う。
これができないのは死を医療が包括してしまったことが原因である。
基本的に僕らは、かかりつけ医のいない死は、異状死になると伝えるように習う。だから家で過ごす場合、かかりつけ医を見つけなければならないと話すことが多い。
でも、この記載を読むと、老衰(ないし、終末期の認知症)と診断できた場合は、異状死にはならないことになる。
僕自身はかかりつけ医を紹介せずに経口摂取ができなくなった患者さんを自宅に退院させた経験がないから、何とも言えないんだけど。
この辺の隙間をきちんと法的に位置付けてほしいと感じる。
それはそれとして
家で最期を過ごす場合、家族に囲まれて最期を過ごすことになる。
老衰で最期を迎えるときのデフォルトの選択肢が療養型病院になっているのは、何かおかしなことのように思える。
実際、家では介護ができないからみれません、という人もいる。
でも、皮下点滴であれば予後は1か月程度と予測できるから、家族がそれぞれ介護休暇を取って最後の時間を過ごすことは可能かもしれない。
介護としても、オムツを1日に一回替えて(皮下点滴500mlであれば排尿も排泄も少なくなる)、服を1日に一回着替えさせて(代謝は落ちているので、もう少し少なくて済むかもしれない)、1日に1回体を拭く程度で済む。皮下点滴は訪問看護師がやってくれる。
僕はこの一か月の予後の伝え方を文字通りに一か月か、三か月かとして伝えていたけど、正直、天井を見て過ごす三か月と家族と家で過ごす一か月のどちらが良いか、と聞かれれば答える側も異なる答えを返すんじゃないかと思う。
急性期病院は看取りの場ではないと考える先生もいて、そういう場合にはたしかにこれらの選択肢は生まれづらいのかもしれない。
でも実際には、急性期病院は高齢化に伴って看取りを調整する場としての機能を持たなくてはいけないように思う。
むしろ地域包括ケア病棟がこのような役割を担うことになるのかもしれない。
ここで言いたかったのは、老衰は医療の敗北ではなくて、寿ぐべきものだと言うことだ。