年金と医療保険に関する戦後の歴史

これを読んでみたので、簡単にまとめてみる。

医療保険の歴史

第二次世界大戦中の医療保険は、存在はするが、機能していない状態だった。医薬品の欠乏、衛生資材の不足、医師など医療従事者の欠乏によって機能していなかった。保険診療ではよい治療は受けられなかった。
敗戦に伴って、ハイパーインフレが起こり、自由診療が増え、医療保険を崩壊させた。被保険者は激減した。インフレに伴い、保険点数では十分な収入が得られなくなって、医療機関は保険医療を拒否するようになった。
終戦が1945年だが、1947年には、自由診療が70%異常だった。
これによって、国民の医療保険に対する信頼感がなくなった。
その後保険制度の拡充がすすみ、1961年に国民皆保険となった。
発足時においては、困窮者≒生活保護は100%給付、生産年齢人口の被傭者(会社に雇用されている、と言い換えてよいだろう)被保険者は、100%給付、そのほかの被扶養者、自営業者、年少人口、老年人口はいずれも、50%給付であった。
1961年、国民皆保険の発足時点では、生産年齢人口と、困窮者への給付が重視されていた。

この時点で重視されていたのは、国民病であった、結核の治療を主要なターゲットとしていた。

1970年には、老人医療費支給制度が成立した。これは医療保険が保証しない自己負担分を、70歳以上の老齢者に限り公費で肩代わりする、という制度で、70歳以上は医療費が無料になる、ということである。なお、この時点で高齢者人口は、7.1%である。

1971年から徐々に、自己負担率が3割と減少し始めた。
ただ、この時点では扶養家族の自己負担率は5割だった。

病院が赤字経営になりがちだったのは、このころからだったようだが、病院のための医療費引き上げが、診療所にも適用され続けた。

1971年から、自治体が独自に老人医療保障制度を充実させるようになった。
同年に参議院で自民党が敗れたため、衆議院選挙を有利に進める意図もあって、1972年に老人医療費支給制度=70歳以上の医療費無料
を成立させた。この時点の高齢化率(65歳以上人口)は7.1%である。

1973年には、家族も自己負担率3割になり、高額医療費支給制度が新設された。
さらに、保険制度に対して国庫負担を行うことも決定された。
この時点で、経済成長によって国庫負担の拡大も期待できると想定されていた。

これによって当然に財政負担が増えたのだが、1973年までは、高度経済成長期であり、年間のGDP成長率は、8%-12%であった。

1974年にはオイルショックで低成長となり、以降のGDP成長率はバブル崩壊まで、4%程度となる。

そして、1973年までは、国民所得の増加と並行して増加していたが、1974年から国民所得の増加と乖離して急増を始める。
この時期から、医療費の患者負担が減少し、国庫負担が増えていく。

1980年代には老人保健制度が創設された。
ここで高齢者自己負担割合が1割になった。
また、年金、医療保険ともに、保険者間の財政調整によって負担する制度が設計された。
つまり、この時点で生産年齢人口に負担させる方向に決まった、ということだ。

1986年には、外来負担が800円/月に増加、入院が400円/日と自己負担が増加した。(見間違いではない)

1993年に書かれた本書でわかるのはこれくらいだろうか。
全体としての方針を決定的に変えたのは、1973年の老人医療費支給制度成立による高齢者医療の無償化で、そこが基準点になってしまったようだ。

さらに、高齢者医療費無償化が持続可能な根拠とされた年率10%のGDP成長率をそれ以降に経験することもなかった。
バブル崩壊までは年率4%程度、バブル崩壊後は0-2%成長となってしまった。
そんな中で高齢者医療の自己負担額は、わずかずつしか増加させることができていない。
医療費削減を目指して、健診事業や予防医療が推進された。
しかし健診や予防医療が医療費削減に寄与したかははなはだ疑問だ。死亡率を下げる、という点ですら、成功したものは多くはない。

ただ、やっぱり根本的な問題点は、1973年の老人医療費支給制度は、負けそうになった選挙で巻き返すために提唱されたという点ではないだろうか。
これについて、以下の論文が詳しく説明している。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh1988/2001/14/2001_14_27/_pdf/-char/ja

https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/sh180402.pdf


高齢者医療無償化の経緯


キャンベルの論文は老人医療無料化が実現された経緯をわかりやすく説明している。
1960年に岩手県沢内村で、高齢村民の医療費全額自己負担を始めた。
(なお、2005年に湯田町と合併し、西和賀町となっている。1970年に12667人の人口を有した西和賀町は、2024年には4741人と、50年でおよそ1/3に減少している。)


次に、「社会福祉運動」によって、1960年初頭から、老人医療無料化が要求されるようになり、1964年には共産党がこの要求を取り上げていた。これは東京で盛んだった。

1968年に野党の国会議員が、医療費無料化の問題を取り上げ、その時代の厚生大臣、園田直が積極的な答弁を行い、地方選の選挙演説で積極的にこの話題を取り上げた。それは、人気を集めそうだと気づいたかららしい。
しかし高齢者医療費無償化の案は、棄却された。

 ここで東京都の美濃部都知事が「国がやらないなら、都が単独でやろう」と発言した。彼はマルクス経済学者で、日本社会党と日本共産党を支持基盤としていた。

1969年には、東京都では、70歳以上の高齢者の医療費全額を都が負担するようになった。
「一般国民に受けがよく、彼の民衆志向的な行政と保守的な中央政府との違いを際立たせることができるような政策上の争点を探していた」らしい。

そして、この老人医療無償化政策は各自治体に広がり、その結果として自治体の支出が増え、老人医療無料化を国の制度とすることを求める全国的な運動が出現した。

 地方自治体は高齢者医療無償化の負担を国に転嫁したく、また退職者クラブ、野党などからも要求が生まれた。
 1971年に、自民党は参議院で結党以来最低水準の得票率となる。

そういった結果から、この老人医療の無償化という気前の良いアイデアが革新政党から出現し、すでに都道府県で実施されていたことから、野党がこの手柄を得ることを恐れて、自民党が自らやってしまおう、となり、老人医療費支給制度≒高齢者の医療費無償化法案が成立した。

この時代においては、平均寿命は70歳だったことに留意は必要だが、それでも膨大な財政負担をもたらしたようだ。
また、無償化に伴うモラルハザードも起きた。

 こうやって経緯を見てみると、老人医療の無償化はかなりなし崩し的に決まった制度のようだ。
それ以前は5割負担だったことにも注意が必要だろう。
 成立の経緯を思えば、見直されても良い制度に思える、ということだ。

しかし、1973年に高度経済成長が終わり、同年に高齢者医療が無償化した。2年後の1975年には合計特殊出生率が1.91に低下した。以降2011年まで減少傾向が続いていた。

これは何かの偶然だろうか。

全体のまとめ
戦後の医療保険は機能しておらず、自費診療が主体だった。

戦後の混乱を乗り越えて、医療保険の自己負担割合は概ね50%になった。

1973年に老人医療費支給制度が成立し、高齢者の医療費が無償化された。

高齢者医療費無償化を実施した自治体の負担増加と、選挙での敗北に伴い、なし崩し的に高齢者医療無償化が推進された。

が、1980年から少しずつ少しずつ自己負担を求めるようになった。

1973年に高度経済成長が終了した。

1975年に、合計特殊出生率が1.91に下がり、それ以降人口置換水準を超えたことはない。











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