no.55 実現 ― コラボレート(協働)Ⅱ
プロデューサーシップ・オーナーシップを醸成する協働文化
上司があなたの仕事の成果を、数値を基に測定し、それで評価し、報酬を判断するとき、やる気を起こすのは難しいとあなたは思うかもしれない。
居心地が悪く不快に感じる人もいるかもしれないが、実際にはそれほど悪くはない。例えばP&Gでは、満足のいく結果を出せなかった人を交代させる(あるいは自主的に去らせる)までに通常2年間の猶予をもち回復のチャンスをあたえている。
プロデュースを育てる文化について、さらに説明させてほしい。メンバーのモチベーションをさらに高めるために、組織の6つの要素をデザインする方法に触れたいと思う。
6つの要素のうち、人・組織・仕事はハードな要素と言える。これらに大幅な変更を行い再構築することは時間と労力がかかり、リスクも伴う。これらはハードな要素である。
残りの3つ、情報、報酬、意思決定はソフトな要素だ。この3つの要素の変更に関しても一定のリスクはあるが、再調整に取り組むのは比較的簡単だ。
ほとんどの場合、組織で望ましい文化を作るためには、最初に 3つのソフト要素を検討することを勧める。この3つを適切に設計することでも、プロデューサーはメンバーのモチベーションを高めることができるのだ。
まず、情報に関しては、ボトムアップで報告される現実に注意を払うことが重要だ。特にプロデューサーは、日々の現場情報に目を光らせておく必要がある。プロデュースの最終責任者であるプロデューサーは、組織のメンバーから高い地位に思われることがあり、彼/彼女を喜ばせない悪い情報が、組織のメンバーから届きにくいことがある。彼/彼女は、その情報を人々と率直に共有したいということを主張しなければならない。
また、重要な情報を隠してはならず、透明性を保つ必要がある。
情報に関して可能な限りオープンであり、誰もがそれを自由に分析できるよう、誠実であることは、メンバーを動機付ける。
特にメンバーの仕事の結果を表すさまざまな情報については、透明性を高くし、オープンに共有するように努めること。客観的に分析するメンバーの真摯な姿勢があれば、理想的な環境が整うと思う。
意思決定に関しては、論理的で民主的な意思決定が望ましい。意思決定に何らかの形でチームメンバーが参加することは、動機付けの効果的な手段だ。また、意思決定のための重要事項を文書化する文化が望ましい。口頭での報告だけではなく、文書化された保存可能な情報に基づいての決定が重要なのだ。また、文章化により、決定を組織内で客観的に共有するのが簡単になる。
論理的な意思決定に関しては、忠臣蔵(第17週のメモ)で大石の意思決定プロセスに関して論じたやり方は、文書化された定量化可能な意思決定の良い例としても役立つ。組織が意思決定のプロセスとしてこの種の形式をメンバーと共有すると、民主的な意思決定の文化が生まれる。
もちろん、すべての意思決定を民主的に行うことは実際的でなく、また最善でもないかもしれないが、メンバーの目的に対する健全な意図は、現代の組織における意思決定に反映されるべきだ。
報酬については、先ほどMBOの話をしたが、メンバー個人の活動の成果と強く結びつくべきだ。それは、目的の達成に、貢献したかどうか、したのであれば、どれだけ貢献したのか、である。報酬は、アカンタビリティが果たされているかどうかを明確にするための情報を使って決定する必要がある。これを標準的なプロセスにすべきだ。
さらに、人事部門は、特定のタスクの担当者がそれを追求するコンピテンシーの所有者であるかどうかを常に調査し、特定の役職に必要な人材を昇進または再配置する必要がある。そして、これが報酬の重要な側面、基礎となる。
組織の目的がメンバーと共有されており、メンバーが最新の情報技術を扱うことに熟練している場合、この報酬の方法は誰にとっても公平だ。
強いチームを作り、維持し、組織の目的を達成するための機能的な文化を作ることがプロデューサーの役割だ。
そして、メンバーが強いグループに属し、競争の中に成長できる環境があるという事実は、人々に高いモチベーションと自信をもたらす。
そのような集団の中でこそ、一人一人が最終的にプロデューサーになるための能力と考え方を身につける、可能性が育まれる。一人一人が、最終的には組織の目的そのものを作ることに携わることができるようになるのだ。そしてこの事実はモチベーションの重要な要素。プロデューサーシップを目指せるようになれば、その人への見返りとして強力な有効性となる。
忠臣蔵を例に挙げてみよう。
1694年春、江戸の町は高田馬場の決闘の話でもちきりだった。戦国時代は、約100年前の関ヶ原の戦いで幕を閉じた。そして人々は、そんな時代にサムライが刀で本当に人を斬ることができることを証明した事件に驚いた。この種の行動は、平和な時代にはほとんど失われていたように見えたのだ。 17世紀後半、武士が腰につける刀は、ほとんど象徴にすぎなかった。そして大半の刀は錆びて使い物にならなかった。そんな時代、江戸の中心部で5人もの男が激戦を繰り広げたのだ。人々は決闘に興奮し、この決闘で5人中4人が死亡した。
安兵衛は、当初この戦い(敵討ち)とは何の関係もなく、旧友の助刀であった。安兵衛と年配の友人の2人で3人に立ち向かったのだ。そして、最終的に安兵衛一人が三人の敵をすべて倒した。
この安兵衛の英雄譚は、物語の中で様々な尾ひれとともに誇張され、伝えられた。
そして、安部は強いだけでなく、誠実な使命感を持っていたとも言われている。友達を見捨てない優しい人だったからだ。
安兵衛は勇敢なだけでなく、人間味のある人だった。当時世界最大の都市だった江戸で、彼は一躍注目の的となった。(当時の江戸の人口は100万人を超えていた。)
赤穂の浅野家重臣・堀部弥兵衛は、19歳の娘・ほりの夫として安兵衛を迎えようとした。
数年前、一人息子が遠縁の浪人(職を失った武士)に殺された時、弥兵衛は当時60歳を超えていたが、息子を殺した犯人を一刀両断にした武勇者だった。老人でありながら、チャレンジ精神に溢れていた。
堀部弥兵衛は三百石の禄をはみ、これは武家社会ではかなり大きく一定の地位もある、
しかし中山安兵衛は、江戸で大変人気のある人物だった。安兵衛はいわば、現代のアイドルと有名な映画スターを兼ねたような人物だった。彼を義理の息子(娘の夫)にするというのは、普通の意味ではかなり難しかったようだ。しかし弥兵衛は紆余曲折を経て、最後には目的を達成した。
弥兵衛は並外れた才能を持ったプロデューサーだったといっても過言ではない。
彼は、中山安兵衛の身元調査から行動を開始した。そして、25歳の浪人であることを確認した後、仲人を立てた。この仲人は求められた結婚を正式に安兵衛に申し込み、拒否される。そこで弥兵衛は、安兵衛の知人や友人、さらには安兵衛が通っていた堀内剣道道場(マーシャル・アート・エクササイズ・インスティテュート)のオーナーである堀内源太左衛門等にも声をかけ、この申し出を実現させた。
江戸時代、特に元禄時代においては、多くの人々は階級制度の中の自分の立場に定住し、生活環境の変化を将来像としてとらえることができなかった。人々は大きな夢をあきらめ、ただ運を天にまかせているようであった。人生を変える、希望を実現させたい、という願望はほとんどなかったのだ。
しかし、60歳を過ぎた弥兵衛はそうではなかった。ビジョンを描き、1694年7月7日、ついに中山安兵衛と自分の娘ほりとを結婚させた。そして3年後の1697年7月7日、安兵衛は堀部と姓を改め、赤穂藩は安兵衛とほりが家を継ぐことを許した。
赤穂藩に弥兵衛のような人物がいた。これも赤穂浅野家の特徴の一つだった。
堀部の英雄譚、弥兵衛と安兵衛の結びつきは赤穂藩で好印象を持って伝えられた。藩主長矩自身も安兵衛が堀部家を継ぎ浅野家の家臣となったことを誇りに思い喜んだ。
かつて浅野家は有名な武術家の山鹿素行を招き、領主や家臣が教えを請うたことがあった。浅野家は平穏な元禄時代には珍しく、剛健な家風だったのだ。安兵衛は、この浅野の家風と文化的特徴に適合していた。
長矩自身、江戸の庶民の間では有名人だった。
長矩は大名火消しと呼ばれた。
100万人を超える人口を抱える江戸は、木造で紙を多く用いた建物が密集しているため、火災が発生すると壊滅的な災害になる可能性がある。浅野内匠頭は元禄3年と5年に本庄火消しに選ばれた。彼は消火の専門家だったのだ。
彼自身もこの役割が好きだった。火事の際には、率先して現場に出向くなど、家臣と一団となって消火活動を行うことが多かった。江戸の町最大の災害である火を止めることは、間違いなく正義(真)であり、人々のため(善)であり、多くの市民の賞賛が長矩と浅野家家臣の誇りを高めている(美)。
鎮火という明確な目的のもと、家臣たちは出兵の速さと技を競い合い、勇気を持って奉仕に努めた。
赤穂藩は平穏な元禄の中でも競争環境を保っていたのだ。
1702年12月14日、吉良邸に赤穂浪士47人が討ち入った際、大石はかつて江戸に浅野家の名を馳せた「匠の火消し」の装束を47人に選んだと言われている。全員袖口を白く染めた暗い色の羽織を着ることで、伝統の誇りを再び結集したのだ。
一方忠臣蔵以前の浅野家最大の生産品は赤穂の塩であった。藩には日本一の塩田があったのだ。長矩の祖父長直は、「入浜式」として知られる堤防に囲まれた塩田を日本で初めて開発した。
江戸時代の産業の中心は農業、特に米だった。米の豊作や不作によって、日本の経済、そして小国とも言える藩の収支が左右された。しかし、赤穂藩は農業に加えて、藩政の力を借りて、製塩業を営んでいた。そうすることで、浅野家一族は収入をさらに増やすことができたのだった。
長直が始めた製塩業は、入浜式の技術革新とともに大規模な塩田を作ることだった。それは土地所有者と土地を持たない賃金労働者によって運営されていた。
しかし、商品経済の発展と、元禄時代インフレが静かに絶え間なく進行したことで、賃金労働者たちの生活は維持できなくなっていた。そして、急速に製塩の経済情勢は困難な局面に突入した。
当時、大野黒兵衛は、藩の有能な下級官吏で、小規模な塩の自家生産を促進した。
それは米の生産に似ていた。米と同様の生産制度を赤穂の製塩業に取り入れ、これにより赤穂の製塩業は復活し、続いた。
大野の方法を真似て他の藩でも製塩業が発展した。これらの手ごわい競争相手が現れたとき、小規模な製塩産業はそれ自体がまた問題を引き起こし、壁にぶつかった。
大野は再び製塩業の危機に直面したが、そこで新たなプロジェクトを立ち上げた。塩ベールの大きさや形状を統一し、塩の品質管理を徹底することで、より効率的な生産体制に挑戦。高級塩づくりに移行しようとした。これは現代の「ブランディング」の始まりだった。この赤穂の新しい塩は日本の新しいスタンダードになるはずだった。
このプロジェクトの完成直前に松の廊下事件が勃発。
長矩の切腹の頃、大野は官僚のはしごをのぼり、家老として活躍。地元赤穂藩では大石内蔵助に次ぐ地位の、製塩業の第一人者であった。元禄時代、藩の財政運営に立ち向かい、それを改善することは、ほとんどの藩にとって通常非常に困難だったが、彼は大きな功績を残した人物だった。
忠臣蔵では、大野は藩士の非常経済状態を救うことを強く主張した。彼は忠実な官僚であり、家臣の命のために奮闘し、藩民のために経済を運営しようとした。普通の武士から見れば臆病者に見えたのかもしれないが、城が明け渡されたとき、彼は赤穂を離れたのだった。
しかし、彼には才能があり、進歩的なビジネスプロデューサーだったのだ。大石も大野の貢献を理解していた。
赤穂の浅野家は、こうした商売の才能もあったことから、かなり進歩的であった。赤穂藩は様々な事業プロデュースを経験し、実績を重ねてきたのだ。これも忠臣蔵の背景として忘れてはならない。
そして、事件が起こった。
江戸と播州の浅野藩の家臣のうち、47人が集まって吉良邸を襲撃した。誅殺は1702年12月14日に行われたが、ここでプロデュースの側面から忠臣蔵を再分析してみたいと思う。
まず、領主の敵討ちがプロデュースであったかどうか。
徳川幕府の治世中、約250年間に250を超える大名家が幕府の命令により断絶した。ほとんどの場合、大名の家臣は職を失い、浪人として藩を離れなければならなかった。
また、家の断絶の理由でさえ、それらのすべてに説得力があり客観性があったわけではない。このような場合、幕府の命に対して「籠城し、戦い、将軍家に対して意を通すか、抗議して切腹するか」。こうした藩士たちの声も聞こえていた。幕府の理不尽な決定を覆したいのは、人間として当然である。決定に反対したいのは自然なことだ。しかし、実際にはこの忠臣蔵を除いては、そのようなリブリウムは実行されなかった。考えてみれば、幕府に対してその種の行動をすることは不可能に近い。それは誰の目にも明らかだ-----できるかもしれないが、行動の結果は自身の死を意味する。
一方で、誰かが本気でそれを思いついたとしても、それを一人で実現するのは難しい。行動を起こすには特定の組織が必要。そしてその場合、このリブリウムの可能性を、コミュニケーションを通じて第三者が理解できる、アイデアにしなければならない。組織を作るためには、アイデアを健全なストーリーと理想とともに提示する必要がある。そして、誰かがリーダーシップを取らねばならない。すべての障害を ひとつずつ克服して、計画を実行する。間違いなく意図的なプロデュースが必要であり、そうでなければ実現することはなかったはずである。
これはプロデュースであるからプロデューサーがいるはずだ。先ほども述べたが、四十七士を集めて敵討ちを実現したプロデューサーというのは、大石内蔵助良雄という見方が一般的である。
長矩の妻・瑤泉院がプロデュースしたのではないかと考える歴史家もいるようだが、それは少数意見だ。瑤泉院はプロジェクトを財政的に支えた関係者の一人だと思う。呉服商の綿屋善右衛門や、江戸の日雇い組長、前川忠左衛門のように、彼女はプロジェクトを影から支えた不可欠なキーパートナーであったのだ。
つまり忠臣蔵は大石の描いたシナリオ通りに進んだ。しかし、一つ重要なことは、このプロデュースは二重の構造を持っていたということである。
大石自身は「浅野家の再興と吉良の処罰を嘆願し、幕府に聞き届けられなければ吉良の仇を討つ」というテーマを掲げていた。
江戸城の変から1年4ヶ月後の1702年7月17日、幕府からの通達で長矩の弟である大学は、浅野家の再建にも赤穂藩の再興にも門を閉ざされた。
そしてその時、吉良家の襲撃が最重要かつ緊急の任務となった。
それまで大石は、自分の管理戦略に基づいて敵討ちを検討していたが、執行を先延ばしし――敵討ちの難しさを理解させながら浪人を組織しようとしていた。
しかしこの幕府の大学に関する決定の後、大石は本格的な忠臣蔵の執行に着手した。
また、大石のプロデュースでは、彼がコネクトし、貢献し、創造したプロデュースのプロセスはほとんど語られず、闇に葬られている。
彼はついに「吉良家を襲い、上野介の首を切り落とし、長矩の墓所に供えるべし」と宣言した。この敵討ちの行動だけが赤穂浪人のまことの魂として明確なのである。
大石にとって、忠臣蔵の真・善・美とは、真――「喧嘩両成敗のルールに基づく社会正義の維持」であり、善――「お家再興の嘆願」であり、美 --- 「領主の恨みを晴らし、武士のメンツを守る。」であった。
しかし、これらを材料に他の四十六人を説得することはせず、彼はただ「我らの真実は吉良上野介を倒すことだ」とだけ言ったのだ。そして、彼はリーダーシップを取り、この目的を皆と分かち合った。
大石自身は実行戦略作成にあまり深く関与してはおらず、計画はチームの他の主要メンバーに任せていた。大石は全体計画の調整を監督した。チームメンバーの自主性を可能な限り尊重したのだ。メンバーそれぞれが協力し合える環境づくりに尽力したが、この背後には大石の性格や能力以外に何かあったのだろうか。
忠臣蔵の二重構造については、このプロデュースにおいて、大石以外のメンバー46人全員もプロデューサーを務めたということだ。
47人それぞれが、自分たちの死が近い将来に待っているという事実を認識していた。それは正真正銘の生死に関わるプロジェクトだった。このタイプのプロジェクトでは、他人の言葉に動かされることはまずない。それはあなたが選んだあなた自身の目的のためでなければならず、それがこの種のプロジェクトに参加する背景であるに違いない。
討ち入りの成功は、大石をはじめとする47人それぞれの物語を完結させた作品だったのだ。
大雑把に言えば、忠臣蔵には二つの目的を持った浪人がいた。最初のグループは、大石のビジョンに共感した人々。浅野家が大事で、お家の復活が最優先。そしてそれが不可能になった時は、領主の恨みを晴らすために吉良に対する仇を討とうという人達である。
2つ目は、小説で江戸過激派として描かれるグループ。堀部や高田軍兵衛(諸事情により攻撃には参加できなかった)など、武士のメンツを強調する集団である。赤穂藩の中で彼らは武術に秀でていることで有名で、セルフイメージにこだわっていた。仮に浅野家が大学によって再興されたとしても、大学が江戸城で吉良家と冷静に対峙することはありえないと考えたのだ。その時、大学のプライドはたえられないだろう。いずれにせよ、武士は誰に対してもメンツを失うことはできない。
”本当に仇討ちはできるのか……?”という不安な気持ちを早く解消したいグループである。大石が復讐の決定と攻撃の日付を延長しているとき、彼らは大石を罵り、彼に反対した。彼らは攻撃を優先し、とにかく早く自分のヒロイズムを満足させたいと願っていた。
また、この過激派の一角には、切腹直前に長矩と面会できた片岡源五右衛門をはじめ、長矩と特別な親交のあった武士の集団がいた。長矩から格別の厚情を賜り、吉良の暗殺など何でもないと思っていた連中だ。彼らは早急に復讐したかった。彼らは急いで領主の汚名をすすぎたかった。そしてそれを行う唯一の方法は、吉良を殺すことだけだと彼らは確信していた。
堀部父子でさえもかれらの感情についていけず、この少数派は孤立していった。
このように、47人の中には、さまざまな思いや欲望を持った人たちがいた。しかし、大石は、同じフロアに異なる夢を持って立っているこれらすべてのメンバーのために、目的を設定した。彼らがコミットしていた誅殺の、具体的な目的だけに焦点を当て、実行計画を調整し、これらの人々と協力した。
「仇討ちを望む者を放っておいてはならない。忠節な者を侮辱してはならない。」その結果、46人のプロデューサー、一人一人が大きな枠組みの中で育まれる環境が整った。
忠臣蔵においては共通のイデオロギーにこだわらず、メンバー一人一人がそれぞれのテーマをプロデュースすることができた。
それは、47人それぞれが、自分自身の物語のプロデューサーであるという確信を持って参加できたからである。
そのようなプロデュースが可能になりやすい環境は何だろうか?
それを現代に置き換えるとどうなるか。
例えば、社内起業家が生まれやすい環境はどうあるべきなのか。
忠臣蔵との関係で考察するのが要点である。
赤穂藩は機能的体質であるゲゼルシャフトの組織文化を維持していたと言える。
それが何であれ、婿養子でも、消防隊のチームワークでも、製塩業の改革でも、プロデューサーは具体的な目的と目標を明確にして、それらを達成することに熱心であった。そして、それを妨げない環境があった。むしろ、それぞれのメンバーが目的を達成するために競い合う……そんな環境が浅野家にはあった。
もう一つはオープンな環境だ。
赤穂四十七士の情報交換については、同志同士で血判を交わした時点から、敵討ちに関する情報はほとんど共有されていた。 (もちろん、47同志以外には完全非公開。)
同志たちも、大石が襲撃前から京都や江戸で女遊びをしていたことを知っていた。
また、堀部ら江戸の急進派が大石を集団の前でののしって罵倒したが、それも大きな問題にはならなかった。もうみんな浪人だし、身分の差なんてない……確かに大石さんは平等に自由闊達に話せる環境を作ってきた。
オープンでフェア。また、公平な環境であることも重要だ。これが3番目のポイントである。
47人のうちの何人かは足軽出身で、足軽は通常優れた武士ではなく、実際には下級の戦士であった。しかし、大石はそのような者たちを、過去の役職や職歴に関係なく、47名の隊員に含め、攻撃する際の衣装や鎧にも差をつけなかった。
襲撃の際、おのおののメンバーの役割に関しては、吉良を発見した者、実際に吉良の命を奪った者等に拘らず、すべて一様に名誉を与えられる。
大石は誰も個人プレーをしないようにした。
ゲゼルシャフトでなければならない組織を考えると、これは少し奇妙だが、究極の戦略には不可欠だった。これは一生に一度の襲撃であり、その成功または失敗のみが 12月14日その日の結果としてカウントされる。
鎖帷子を身につけた3人組で1人を倒す作戦。特攻隊でありながら、「吉良の首を上げて全員無事に、仇討ちに勝つ!」という公平性と最終目的を共有することを重視した。
とはいえ、大石はメンバーそれぞれの思いや夢にひとつの形を押し付けようとはしなかった。
一人一人が人間として平等であり、それぞれの未来は同じ価値と重みを持っている。大石は、この考え方を吉良邸襲撃の際の基本と認識していた.
この47人は、赤穂藩の武士300人のうち、約15%だった。武士でない者を含めた赤穂藩全労働者のうち、この47人はその約5%にあたる。時代を変えるイノベーションを生み出すプロデュースの協働は、全組織構成員の5~15%。能力があり、考え方が共有でき、そして特定のプロデュースへのモチベーションの高い構成員をどのように扱うかが鍵となる。
まとめると、プロデューサーシップは、たとえ機会があったとしても、組織のすべてのメンバーに期待できるものではない。また、もともとプロデューサーになれる才能を持っていたとしても、プロデューサーシップは特定の環境でのみ開花し、実を結ぶ。
まず、自分から求められたものでも、与えられたものでも、強制されたものでも、生み出されるべきテーマがなければならない。
また、ある目的を達成するための組織を作る経験も重要だ。
メンバー間の競争を促進し、それを調整して協働につなげるリーダーとしての経験も必要。
また、プロデュース過程で発生する様々な問題の本質を探り、解決する力「マネジメント力」を持つことも必要だ。
さらに重要なことは、各メンバーを刺激するオープンで公正な組織文化である。
これらは、プロデューサーがコネクト、貢献、クリエイト;プロジェクトの構築を主導および管理できる環境のエッセンスといえる。
提案されたアイデアに耳を傾け、協力しようとする人が、少なくとも一握りはいる環境。そういった意志を育む環境も必要である。