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可憐なる小植民

【可憐なる小植民】前途有望の計画 東京朝日新聞(1913年6月2日)
東京市養育院が同院所属の府下井之頭学校に収容せる生徒鈴木幸吉、金谷清吉他十九名を英領馬来半島ジョホール王国の護謨採取業に従事せしむる契約にて渡航せしむる事は既記のごとし。

志願者は60余名。そのうち21名が選抜されました。渡航先は鈴木園。元古河銅山勤務の鈴木審三氏が園主のゴム園であり、満五年務めた者には3エーカー純益すなわち600円を成功謝金として支払うとの契約だったそうです。

こちらは「布哇殖産新聞」。同業者には気になるんだろうか?

鈴木氏が衣装(←装束)を用意して、謡、仕舞の師範役まででき得る三名を加えたとありますから「契約移民」でしょう。それでも。日本郵船の好意で13円ほど割引いてもらえた船賃は、生徒たちの前借となりました。

そして地元紙「南洋新報」の報道振り。契約は10年!

巣鴨分院からは3名をブラジルへ南米移民させたとありますが、巣鴨は孤児院で、こちらは感化院。親がいる子も含まれます。親は了承済みと「布哇殖産新聞」にはあり、金銭等の授受もないことから、人身売買ではなく「契約移民」であることがはっきりしました。

「南洋の新日本村」という、シンガポールの邦字紙の記者が書いた本には、以下のように彼らの様子が説明されています。

當園には先年東京感化院の院生20名を収容し来り、うち1名死し今は19名となってゐる。総て善く働き絶えて不良の傾向なしと言ふも、唯彼らに小遣1弗を与ふれば、直ちに費消し、2弗3弗を与ふるも同じと、けだし持ち前の遊惰心らし、相当の家庭に育ちたる者もあれば、良心の回復を認め次第実家に帰還せしむる考えなりと櫻田氏(支配人)は語る。

1名の来馬はキャンセル?亡くなった子はマラリアでしょうか?どこに葬られたんだろう、なんて気になることがありますが。小橋ひとつ渡った場所が古河園でしたから、もちろん敷地内の病院にも入って世話を受けた上での死去だったのでしょう。

古河園も鈴木園もJB郊外のULU TIRAMにありました。当時の記録によれば、ジョホール川からのアクセスが主だったようで、陸路については地図上でも確認できませんでした。

1926年の地図。日本人経営のゴム園がちらほら見られます。

古河園は真ん中あたり。この隣に鈴木園があったんですね。

井之頭学校というのは、東京市養育院感化部のことだそうです。大塚にあった養育院に非行少年救済を目的とした「感化部」も設立されたのですが、孤児と非行少年を同じ場所で生活させるのは?という話が出て、感化部は切り離されたそうです。

で、もともとは皇室の財産である「帝室御料地」に澁澤翁が更生施設をつくってしまったのですから、びっくりですけれど。こんな経緯で井の頭学校ができたんだそうです。敷地は9千坪。トタン塀で囲まれた学校で、生徒たちは農業や園芸、木工、裁縫などの作業も行っていたようです。農業実習用の畑もありました。

その後、井之頭学校は1939(昭和14)年に東村山へ移転して、跡地は井の頭自然文化園(動物園がある場所)となりました。動物園の園舎は、井之頭学校の廃材を用いて造られたんだそうです。

タイトルとなった元の記事は、神戸大学図書館のデジタルコレクションで読めます。昔の新聞ですから誤記が多く、訂正してここには書いていることを、補足しておきます。

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