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稽留流産と子宮頸がん異形成3aの入院手術 後記

※完全に個人用の記録ブログです。

前回の稽留流産の医師判断から約1週間。
文字通り、待ちに待った手術の日がやってきた。

お腹の子を処理するというのに、待ちに待っていたのは、表現が酷かもしれないけども、そのくらい日々の悪阻が酷かった。
手術前日まで、文字通り、意味もなくゲーゲー吐くばかりで、この意味のなさがますます辛く、生きた心地がしなかったからだ。
苦しみから早く解放されたい…
私の脳裏にはもうこれしかなかった。

◆手術前の回想
当日は午前10時に入院。
手術自体は結局16時と、6時間も暇な時間を過ごすことになったのだが、連日ろくに栄養や水分を採れていなかった私の体は、事前の点滴がとてもありがたかった。

それに加えて、今回は費用が上がっても良いのでと、個室を選択した結果、窓から見える空と新緑が美しい部屋に恵まれた。(※表紙の画像)
これはまったく期待してなかったことなので、用意していたiPadや部屋にあったTVは一切見ず、ひたすらぼーっと、窓の外にある壮大な自然を眺めては、

自分がこの世に生まれてきた意味

だったり、これまでの人生の経験や体験を振り返って、やり直せたらどこか選択をやり直すのだろうかとか、そんなことを考えていた。
でも、あまり過去を後悔したりするタイプでもないので、もし過去に戻ったとて、私はきっとその場その場でベストだと思った、同じ選択をするのだろう。

妊活だってきっとそうで、35歳から42歳まで、ひたすら仕事を優先しつつダラダラとやってしまったが、まったく努力しなかったわけではないし、むしろ体外受精までトライしたんだ…これ以上何もできることはないし、もっと若い頃にチャレンジしてたらというタラレバの疑問だが、保険適用外で1回100万近く支払うようなひどい社会構造の中で、そこまでして子供が欲しいとはどうしても思えなかったのだから。

体外受精が保険適用となったのは、私が40を過ぎてから。
そこで初めて、体外受精という選択肢が視野に入ったのだから、やはり私のタイミングはこれが最適であり最速だったのだと、文章に興してみてなおさら思う。

あと、新卒から結果的にブラック企業ばかりで働いてきた私のキャリアはどうだったのか。
20年前のあの頃はブラック企業率はとても高かったし、入りたくて入ったわけでもなかったが、学歴もさほど高くない私が、新卒で名もないブラック企業を経験したことで、その後のキャリアが拓けたのは間違いない事実。

いわゆる誰でも知っている大企業にも入社することができたし、色んな業界の経験を積むことができた。
ただ、経験は積めたものの、結局どこまで行っても、誰かの会社、そこの従業員、という事実に、その先にワクワクする未来を見出すことができなかった。
だから、稼げるお金や待遇がいくら減ろうが、副業の個人事業主からはじめ、法人化し、独立した。
順風満帆とは行かないし、紆余曲折だらけだが、キャリアの面でも、やっぱり後悔はしていない。
過去の友人に、20代からド直球でやりたいことを見つけ、それが他の誰もできないようなキラキラな仕事で、はじめから独立して、しかも大成功しているような子もいて、本当に眩しい限りで心から羨ましいけど、私はそんなストレートな道を歩めなかった。
でも不器用な生き方、それが私の人生なのだと思う。

◆手術
と、こんな事を空を見ながら考え、ウトウトしていたら、あっという間に手術時間となる。

看護師さんに連れられて手術室へ歩いて行き、オペ室に入ると、ドラマで見るような、THE本物のオペ室状態で、医師にたくさんの看護師に突然囲まれ、一気に緊張感が上がる。

ベッドに寝転がされ、すぐに麻酔マスクを被せられる。
不安でいっぱいの中、ベテランと思わしき看護師さんが、大丈夫ですよ〜と、とても優しく声をかけてくれた。
出会って数秒にも関わらず、気づけば私は彼女の手を強く握っていた。人間は本当に不安な時、誰かの手を握ることでだいぶ安心する生き物なのだろうなと、前回の流産手術の時も合わせて改めて思う。彼女には感謝しかない。

何度か言われるがままに、深呼吸を繰り返すも、なかなか麻酔が効かなかったようで、まさか私は全身麻酔も効かないのか……?などと思い始めているうちに、気づけば意識が朦朧としてきて、深い眠りに落ちた…。

……

次に意識が戻ったのは、手術後にベッドの上で病室に運ばれている最中の私だった。
手術前に看護師さんに麻酔の効き具合について聞いた時、中には、術後すぐに目覚めて、歩いて病室に帰るような人さえいるらしい。
前回の痛みだけは避けたかったので、早く目覚めませんように…が私の願いではあったが、私の場合、すぐに目覚めてたって歩けるような状態ではなく、ストレッチャーで運ばれている事を理解するくらいで精一杯だった。

そこから3〜4時間、朦朧と眠り続け、やっと覚醒することができたのは、看護師さんが強めに電気を入れて、起きてください、と言われた時。
それまでの間も、1時間おきに、体温、血圧、出血量の3点を看護師さんが代わる代わるチェックしにきてくれていたのを、うっすらと思い出す。

この時に、早計に妊娠を伝えてしまっていた友人たちに、ほぼ似たようなメッセージで流産と手術完了のお知らせを簡単に送り、スッキリした気持ちになった。

看護師さんのご飯は食べれるか?という質問に、昨晩から絶食していたのもあり、食べてチャレンジしたい気持ちはある、と返し、念願の夕飯が目の前に来たのだが……
 
半分くらい食べたものの、とてつもなく気持ち悪くなり、食べたものをそばから猛烈な勢いで、全部戻してしまった…。
これは、これまでの 悪阻の戻し ではないな…と、体感で理解。麻酔の影響によるものだ。

本格的な全身麻酔はこんなにも体に影響するのかと、この歳にして初めて実感した。
結局飲み食いできずのため、点滴を1袋追加し、まだまだ朦朧とする意識に任せるままに、眠る。

次に看護師さんに起こされた時、朝だと勘違いし、おはようございます!と返すも、なんとまだ夜11時だった…。
こんなに時間の感覚までおかしくなる事に驚いた。
何をされたかあまり覚えてないが、とにかく眠いんです……
と伝えて、これまでもさんざん寝てばかりだったのに、さらに眠りにつく。

◆翌朝
目が覚めたのは朝の4時くらい。昨晩よりはだいぶ良くなった気がするも、まだ麻酔が抜け切ってない感覚があり、スマホで無駄に色々な情報を入れたり、友人からのLINEに返したりしながら、朝食の時間まで時間を潰す。
結局朝食が来たのは8時頃で、4時間も何をしていたのか、あまり覚えてないが…。
そういえばUnextで購入してた漫画を1巻読んだりはしたな。

まだフラつきが凄く、気持ち悪さも残っていたが、朝食は吐かずに食べられ、体温もOK、血圧だけは上が80台とかなり低かったが、無事退院OKが出たので、旦那の迎えでやっと家に帰ることができた。

◆退院後
割とすぐよくなると信じていたが、歳のせいか、手術を2つ同時にして出血大量だったせいか、疲労が激しく、家に帰ってからも、手術前とまったく変わらないレベルで寝込み、辛うじて久しぶりに作った (作ったと言ってもパルシステムの簡易料理) 昼ごはんを旦那と食べ、美味しく感じられない不幸せも残留したまま、強い眠気に襲われ、また眠る…。

夜は目が覚めたものの、相変わらず調子が悪く、かつ突然激しい腹痛で目覚め、唸りながら旦那に市販の鎮静剤を持ってきてもらい、それが15-20分くらいで幸いにも効いてくれて、そこからまた深い眠りについた…。
どれだけ体の中が疲れているのか、と我ながら驚いた。

◆翌々日の朝
この記録を書いてるのがまさに今、朝5時頃おき、なぜか記録に残したくなったのだ。
今回は、誰かに読んで欲しい、認めて欲しい、同じ状況の人に共有して苦しみや悩みを分かち合いたい、という、前回のブログまでの気持ちはなく、ただ、この一連の出来事を、後になっても思い出せるように、そして気持ちの整理ができるといいな、そんな気持ちが募って、ただ心に任せて書き連ねてみた。

有名な作家さんの記事で、アウトプットすることが普段吐き出せない感情の捌け口になるという言葉を読んだ直後だからかもしれない。

私にとって、この一連の出来事は、人生においてよ大きなターニングポイントになったと思う。

だから、どんな辛い状況だとしても、私にとってとても価値がある体験だったし、この今の瞬間の気持ち、体験を忘れたくない。きっといつか、自分自身や、誰かの役に立てるのかもしれない。

今現在は、昨日よりもさらに体調回復している実感はある。

本調子に早く戻って、自然な笑顔で、旦那やペットたち、家族と向き合いたいな。
 
もしここまで読んでくれた方がいたとしたら、拙いブログにも関わらず、ありがとうございました。


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