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3-2-a.) 異化効果 ―「エギスト=フロイト」の錯覚

 次に、『エレクトラ』という作品に限定せず、エーラトの「演出」方法、彼の「演出」そのものへと広げて考察していきたい。


 2012グラーツ『エレクトラ』の演出は、一連の展開、それに対する各メディアの批評、そしてエーラト自身のコメントの内容から、劇作家ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)による「叙事的演劇(Episches Theater)」の概念が基盤にあると考えられないだろうか。

 叙事的演劇はそれ以前主流であった「劇的演劇(Dramatisches Theater)」と区別されるものであり、ブレヒトによれば「劇的演劇」は観客を役に感情移入させつつ出来事を舞台上で再現(Representation)することによって観客にさまざまな感情を呼び起こすものであり、それに対して「叙事的演劇」とは役者が舞台上で出来事を説明(Demonstration)し、観客に批判的な思考を促して事件の本質に迫らせようとするものである。

 また彼の叙事的演劇理論として特に広く知られているのが「異化効果(Verfremdungs-effekt)」であり、これは日常において当たり前だと思っていたものに対してある手続きを施して違和感を起こさせることによって、対象に対する新しい見方、考え方を観客に提示する方法である。

 ブレヒトによるこれらの演劇モデルの登場は、舞台と観客の関係性が捉え直され、舞台芸術における観客の主体的参加が起こるようになった一つのきっかけとなったと言えるだろう。


 これに関して、今回の『エレクトラ』においては、舞台が古代ミケーネから現代の精神病院へ移された点、「死んだ」オレストと「生き延びた」エレクトラという特異な演出も、このような叙事的演劇、異化効果の概念の流れを汲んでいると考えられる。


 それでは「フロイトの姿をしたエギスト」を例にエーラトの演出意図とブレヒト演劇モデルを関連付けてみたい。

 エギストを、外見上フロイトを思わせる医者の姿にしたことへの意図として、エーラトはまず「私にとってはもちろんエギストはフロイトではない」 と述べたうえで

フロイトは(舞台上でエギストが着用したような)コートや聴診器などその類のものは一度も身に着けていない。本来エギストである者がフロイトあるいは病院の医者であることは実際にはただの遊び(Spielerei)であって、実際に私は彼をフロイトだとは思っていない。だからこれは当然ある種の皮肉に過ぎないのだ。 _1

 と語った。しかし、同時に彼はこうも語っている。

ドイツ語で「狂っている(verrückt)」というのは美しい表現だ、なぜなら「狂っている」というのはただ「規則からずれている(„von der Norm ver-rückt“)」という意味だからだ。となると、その規則を定めたのは一体誰か? _2

 この発言からは、次のようなエーラトの意図が読み取れるように思う。

 すなわち、「規則」を決めるのはその領域あるいは世界に関して最も影響力を持つ者である、ということだ。
 とすると『エレクトラ』という世界において権力の頂点にいるのはエギストという人物であり、そして精神分析学、精神病理学の世界を確立させ、今日もなお根強く影響力を持ち続けているのは第2章でも述べたように、フロイトという人物なのである。

 このように「規則を定めた者」という観点から、両者はこの作品の中での演出によって結び付けられたのではないだろうか。
 観客は舞台が明らかに精神病院へと移されていることを目にする。たとえ今回のエギストの衣装が本来のフロイトの姿とかけ離れていようとも、多くの批評家が「エギスト=フロイト」と「錯覚」したように、この仕掛けによって観客は『エレクトラ』がウィーンでの精神分析の興隆と同時期に立ち現れた作品であること、そしてこの演出においてはとりわけフロイトが築き上げた精神病理学の世界が強調されていることを改めて再確認することになるのである。
 その意味では、エーラト演出の意図は成功したと言えるであろう。

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1. Interview., p.1.
2. Ibid.

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