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2-1-a.) 抑圧されたエロース

 『エレクトラ』において「性」の抑圧という要素が最も顕著に語られるのは、再会を待ち望んでいた弟に対し、エレクトラが自身の「女の成長」を語る場面であろう。この部分はヒューザスも講評で取り上げている(この部分はオペラにおいても一部短縮、改訂されて引き継がれている)。

分ってくれるでしょう、オレスト、甘美な戦慄を
わたしはお父さまに捧げてしまったのよ。
たとえわたしが肉のよろこびにひたったとしても、
お父さまの深い溜息が、お父さまの苦しげな呻き声が
わたしの閨にまでひびきわたらないですんだかしら? なにしろ
死人というものは嫉妬深いものだから。
そしてお父さまはわたしの花嫁にといって
憎しみを、みるもおそろしげな憎しみをあてがってくださったのよ。
それでわたしはその毒蛇のような息をする
おぞましいものをわたしの寝もやらぬ閨に迎え入れなければならなかった。
そのものはわたしに男と女の間におこるすべてのことを、
無理矢理に教えこんだ。 ああ苦しかった
その夜々、教えこまれたために苦しかったその夜々! わたしのからだは
氷のように冷たいままに燃えあがった、芯が燃えつくされた。 _1

 この部分からヒューザスは、父親の残酷な殺害がエレクトラから女性的な気持ちを取り上げ、そして殺害者に対する彼女の憎しみは彼女自身に「男と女の間におこるすべてのこと」―彼はこれをクリュテムネストラとアガメムノンの間に起こる殺害のことだと述べた―を教え込んだのだと述べる。

 しかし、同時に「甘美な戦慄」とはエレクトラ自身のリビドーであり、彼女はこれを父親に「捧げてしまった」のだとしてヒューザスはここに抑圧された性の側面を指摘している。そしてさらに、「このような読み方は必ずしもはっきり見えてこない」としながらも彼はもうひとつの可能性を、すなわちアガメムノンとエレクトラの近親相姦、果てはエギストとエレクトラのレイプ関係の可能性までも指摘するのである。

『エレクトラ』に関するホフマンスタールの真意を、私たちはここで断定することはできない。しかし私たちがこの部分に「性」の一面を垣間見ようとすることも、ひょっとするとこの詩人の意図したところであったかもしれない。

 そしてこの「抑圧された性」ということに関して、フーコーは精神分析と性(セクシュアリテ)の関係性という視点から以下のように述べている。

精神分析はあのセクシュアリテの医療化の一端をになっている。そしてこの医療化がまた、奇妙な現象なのです。というのも性愛の術にあっては、医療化されるのはむしろ快楽を強化するのに役立つ諸手段(薬品であれ、身体的なものであれ)なのです。ところが西洋では、セクシュアリテそのものが医療化されてしまった。あたかもそれが、人間存在にあって病理学的に特に弱い部分ででもあるかのように。 _2

これに関連づけて、同じくフーコーの別の論を引用してみることにしたい。

「あなた方は、あなた方の性器以外の何ものでもない」。数世紀以来、女性に対してこのようなことが言われてきました。そして医者は、女性の性器が虚弱で、ほとんど常に病んでおり、常に病を誘導するものである、と付け加えました。「あなた方は人間の病である」、というわけです。そして、この非常に古くからの動きによって、18世紀の終わりにはついに、女性が病理学化されることになりました。すなわち、女性の身体は、医学的事例の典型となるのです。 _3

 この二つの引用から、18世紀における「女性の病理学化」と20世紀の「精神分析による性の医療化」の間に、私は何らかの関連性を見出したい。

 女性が病理学化されたことに精神分析的理論が入り込み、性と無意識が結びつく。そこに性が抑圧の対象であるという意味づけが加わり、その理論が広く普及することになる。
 すなわち、性の抑圧という歴史は女性抑圧、あるいは女性蔑視の歴史の上に存在していると言えるのではないだろうか。
 しかし、この作品の誕生から100年以上が経過した現在においてもなお、性に関する今日の解釈はこのフロイトの理論によって一般化されているとヒューザスは指摘する。

今日の西ヨーロッパ社会は当時よりもあらゆる面が緩和され、事実上許容される範囲は広がったが、性については100年前に普及された精神分析の概念でもって未だに理解されている。心理学はかつてのどの理論とも比べられないほどに私たちの思考を左右しているのである。 _4


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Hüsers,Francis: „HUNDERT JAHRE WAHRHEIT Zur Grazer >>Elektra<<-Konzeption“, In: Oper Graz(Hg.),Richard Strauus Elektra Saison2011/2012, Graz: Opernhaus Graz,2012(以下この文献からの引用はHüsers,2012と表記)

1. フーゴ・フォン・ホフマンスタール、岩淵達治他訳「エレクトラ」(『戯曲(ホフマンスタール選集;4)』)、河出書房新社、1973年、pp.47-48。
2. ミシェル・フーコー「身体をつらぬく権力」(リュセット・フィナスとの対話)、「キャンゼーヌ・リテレール」誌、247号.1977.1.1-15日号、p.4-6(ミシェル・フーコー、小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編『フーコー・コレクション5 性・真理』、筑摩書房、2006年、pp.28-29)
3. ミシェル・フーコー「性の王権に抗して」(B.H.レヴィとの対談)、「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、第644号.1977.3.12-21日、p.130(同書、pp.43-44。)
4. Hüsers,2012, p.26.

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