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結論 a.) 「演出」と「作品」

 「2-1. 分裂する評価」でも述べたように、今回2012グラーツ『エレクトラ』は多くの批評家のコメントから典型的な「レジーテアター」の上演であったといえる。

 しかし、そもそもレジーテアターという概念は不正確なものである。
 というのも、(即興的)パフォーマンス以外のすべての上演は「レジー」によって形作られるからだ。

 とはいえ、その「レジー」が意味しているのは

今日の社会状況において作品の内容と類似した関係にあるものを見出し、その作品に刻印する演出行為 _1

 であるとズザンネ・フィルは述べている。
「レジーテアター」は、演出のシアター性(Theatralität 訳注:テクストに基づくドラマ性に対立する概念)から出発する。
 すなわちレジーテアターとはさまざまな記号体系を組み合わせる自律的な芸術実践である。 _2


 また演出と作品の関係性については、近年日本でも訳書が出版されるなど非常に注目されているクリスチャン・ビエとクリストフ・トリオーが共著において演劇学の視点から論じており、彼らの論には共感する部分も多い。

 二人が述べるところでは、演出とは

意味が生み出されるるつぼであり、イメージの諸力がかたちとなって表れる空間であり、俳優を開放して奮い立たせようとする働きかけでもあるような、あらゆる可能性を秘めた場 _3

であり、演出家の活動はもはや、永遠で普遍的と主張されていたテクストの性質を受け継いで透明であろうとしたり、演出に関わる演劇性を隠蔽することを求める「イリュージョン」の追求を前に、自分を消し去ろうとしたりはしない。

 反対に、演出は確立され、観るべきもの、厳密な意味で「読む」べきものになる。

 演出の活動はテクスト素材を自覚的に用いた介入、註釈、遂行=上演である。演出は言説になり、テクストをもとに構築され、これを裏打ちするもうひとつのテクストになる。

  そのとき演出家は「芸術家としてその保証人、第一の生産者、新しい作者」 になるのだと二人は述べる。

 そして、こうした作業が最も可視化されるのは「古典」といわれるテクストを対象にするときであるという。
 なぜなら、それは歴史における距離によってエクリチュールの時間と上演の時間が隔てられ、テクストとその舞台上演のあいだにすでに存在する断絶が二重化され、明示されるからである。
 さらにこうした歴史的、批評的距離が存在する場合には、新作を創造するときよりもはるかに演出における特別な視点、すなわち「解釈」が明確化されていることが求められる。

 したがって今日、レパートリーのテクストを演出する際には

いかなる教師然たる構えからも離れること、テクストの「意味を開く」こと、しかし観客をさまざまな解釈に導くことを引き受けること、演劇そのものについて語ること、演劇の存在の正当性を説明すること、みずからを舞台作品として隠さず示すこと、みずからを笑いものにすること、そしてもちろんみずからを問い直すこと _4

 が必要であると二人は述べる。そしてこれにより、演じる側は仮想的なものを提示し、観客はそれを観るとともにその奥まで見通そうとする。

現代演劇は、もはやドラマ(劇)的ではなく、参加的なイリュージョンを創造ないし再創造する可能性を手にし、演劇をおこなう行為と、それを観る行為、ないしは消費する行為とを対立させる考え方と決別したのだ。 _5

 その意味で、レジーテアターとはもはや一過性の流行ではなく、今日の演出という概念、考え方は新たな段階に差し掛かっていると言うこともできるだろう。


 この実践は演劇だけでなくもちろんオペラのレパートリーにも応用されている。
 とくにドイツ語圏では多くの劇場が「よく知られている作品から新たな認識が得られるような演出」を求められているとフィルは述べる。 

オリジナルなイメージ世界が、その作品と観客の生きている現代世界とを結合するように要求されている _6

 のだという。
 グラーツもまたオーストリア第二の都市として、比較的オーソドックスな演出による上演が多いウィーン(多種多様な観光客に配慮してのことだろうか?)とは対照的にオペラ、演劇ともに前衛的な演出に挑戦しており、結果的にそれは定着している。
 その意味で、今回の『エレクトラ』はまさに「グラーツならでは」の作品だったとも言えるだろう。


 しかし、オペラにおける演出については、オペラ演目の大半が18世紀から20世紀初頭、つまり過去の作品であるということが第一の特徴であり、同時に困難さもそこに存在する。

 これは演劇にも当てはまることだが、レジーテアターによって歴史的に根無し草にされることで、作品が成立した時代状況に根差していた作品のアスペクトを理解することが困難になってしまうとフィルは主張する。

劇的葛藤を生み出した社会的土台が失われてしまっているのに、音楽のために、その葛藤を再び盛り上げようとする試みは、しばしば奇妙な現代化に陥ることになる _7

のである。

 また第二の特徴として、オペラという作品形態独特の観点が発生する。
 すなわち、「音楽」と「演出」の関係である。

「3-3. 「演出」の到達点」でも述べたように、大きすぎる音楽の盛り上がりは時として演出家に困難を強いてしまう。
 しかし、それは言うなれば「テクスト、譜面に書いてある通りには決して表現・演出ができない」というある種当然であり、しかし当然すぎてむしろ忘れられている前提を改めて表明する機会があるということである。
 演出家は自身が向き合う作品に対する演出への不可能性をまずは認めなければならない。

 問題は、「認めたうえでどうするのか」だ。

 その意味でオペラ演出が音楽の壮大さと向き合うことは、一つの到達点であり、同時に出発点でもあると言えるのだ。

*** *** ***
1. ズザンネ・フィル/ザビーネ・シタドラー、藤野一夫訳「ワーグナー作品の新演出における「レジーテアター」とポストモダン演劇美学」(早稲田大学演劇博物館グローバルCOEプログラム「演劇・映像の国際的教育研究拠点」、『演劇映像学 報告集:演劇博物館グローバルCOE紀要』、2008年)、p.142。
2. 同文献、p.142。
3. クリスティアン・ビエ、クリストフ・トリオー/佐伯隆幸 日本語版監修『演劇学の教科書』、国書刊行会、2009年、p.497。
4. 同書、p.439。
5. 同書、p.586。
6. ズザンネ・フィル、前掲文献、p.142。
7. 同書。

引用箇所以外にもビエ、トリオー『演劇学の教科書』をかなり参考にしています。

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