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3-3. 「演出」の到達点 ―「名前のない踊り」をもとに

 ではここからこれまでの考察を踏まえたうえで、エーラト演出の『エレクトラ』を例に「演出」という行為の可能性、限界あるいは到達点を探っていきたい。


 これに関して私が注目したいのは終局におけるエレクトラの「名前のない踊り(ein namenloser Tanz)」の演出である。

 作品のクライマックスとなるこの部分は彼女の狂喜や命そのものまでもが海のように広がり、かつ大きく花開くかのような荘厳な音楽が響き渡る。それは

「私たちのように幸せな者にふさわしいことはただ一つ、黙って踊ることよ!(Wer glücklich ist wie wir, dem ziemt nur eines: schweigen und tanzen!)」 _1

 とエレクトラが歌い上げるように、言葉が入り込む余地を与えないまでの響きである。
 ワーグナーは、音楽は言葉の補足や補強だけでなく、言葉にならないものを表現すると定義している。彼は『未来音楽』(Zukunftsmusik, 1860年)の中で、言葉にできないものを沈黙の中で語らせることができるかどうかに詩人の偉大さが表れ、この語られざるものを「鳴り響く沈黙」(tönendes Schweigen)という偽りない形で響きにとって表現するのが音楽家であると述べる。 _2

 『エレクトラ』においても復讐を成し遂げたエレクトラの狂喜は言葉が表せる領域を超えており、この「名前のない踊り」はまさに「沈黙が鳴り響いている」場面だと言えるだろう。


 さて、2012グラーツ『エレクトラ』では舞台中央部が回転しつづけるなか、エレクトラは一歩も踊ることなくその場に立っていた。(「1-3. 動作と演出」参照)
 中央檀の縁を囲むように垂れ下がっていたビニール幕はゆっくりと上昇し、血まみれになった患者たちの両手は大きく上に伸ばされている。
 この舞台構図の中で、「踊り」の要素はどこに隠されているのだろうか? エーラトは語る。

どんなに踊りの才能のある歌手でもこれに到達することはない。音楽が内包しているものはさらに大きい、だから全てを回すのだ。私は最初からこうするつもりだった。どの劇場でやるにしても、舞台上で踊らせることのできる最大のものはこの回転舞台だろう。だからこそそれはとてつもなく巨大な動きになり、また、こうすることによってのみこの音楽ははじめて機能すると私は思っている。 _3


つまりエーラトは「名前のない踊り」をエレクトラの肉体から切り離すという手法を選んだのである。

 このことから、この演出はエーラトが音楽の盛り上がりと登場人物の身体性を天秤にかけ、前者を優先させた結果のものだと考えることができる。

 ただ、各誌の批評家が「磨きのかかった演技指導(die ausgefeilten Personenführung)」と高く評価していたように、それまでエーラトは演出においてアンサンブルである患者たち一人一人に至るまでその身体性にこだわっていたにも関わらず、この最終場面の演出ではそういった身体性を一気に「放棄」してしまったのだとも言えるのではないか。

 となるとここでの彼の選択は(たとえ彼自身が語るように「最初からこうするつもりだった」としても)、演出におけるある意味での「限界点」の提示であるようにも思われる。

 つまりオペラにおいては一般に「音楽」と「身体」のつながりは対等なものではなく、音楽の方が常に上位にある。
 そこにはワーグナーが主張するように「言葉にできないもの」も含められている。これに関して、「言葉にならないものを表現するものである音楽を言葉で規定してしまえば、音楽の表現の可能性を狭めてしまう危険性がある」と北川も主張している。_4

 したがって、演出家としてはその音楽の意味を確定しきることはできない。

 そして同時に登場人物たち一人一人とそれを演じる歌手たちは完全な同一人物にはなり得ないという絶対的な隔たりがある。ここでも両者の関係は対等ではない。
 歌手たちは「演じる」立場である以上、オリジナルの人物たちを常に「追いかける」形になってしまう。
 エーラトが断言するように、エレクトラの踊りは「エレクトラ自身」以外には絶対に踊れないのである。ここで「エレクトラ役」の歌手がこれを「踊ろう」とすることは、言ってみれば音楽を言葉で規定してしまうことと同義になってしまうのだ。

「名前のない踊り(ein namenloser Tanz)」と書かれてはあっても、それが本当に「踊り」の形であるかどうかは誰にも分からないのである。

 エーラトもこのような考えからエレクトラの肉体と「名前のない踊り」を切り離す手法を採用したのではないか。
 これによってエレクトラの狂喜は彼女の肉体から解放され、舞台全体を使って表現することが可能になる。いわば舞台全てが「エレクトラそのもの」になるのだ。身体性は「放棄」されると同時に「拡大」されているのである。


 ただこの演出に関しては、実際に私もそうであったように、観客が「名前のない踊り=舞台の回転」という図式に気付きにくいという問題があるようにも思われる。
 果たしてこの演出の意図を見抜いた批評家はいったいどれほどいたのだろうか。
 2012グラーツ『エレクトラ』のなかでもこの場面における演出はより観客に主体的参加および分析を求めるものであるだろう。「名前のない踊り」はそもそも『エレクトラ』という作品のなかで最も重要であると言ってもいい部分であるだけに、その演出意図を理解できなかった受容者にはむしろ「駄作」のレッテルを貼られてしまう危険を大いに含んだものとなったのだ。
 確かにそれはD.エンダ―が評したように「過小評価できない大博打」なのである。さらにはシュピースの言うように 、シュトラウスもホフマンスタールもどこにもいないように映ることにもなったのである。


 しかし、もう一つ忘れてはならないのは、このような前衛的な演出さえ生み出すことのできる解釈の余地が「音楽」のなかにはあるということだ。

 舞台芸術は、テクストおよびスコアに書かれてあるものであっても絶対ではない。特に音楽は言葉で意味を規定することはできない。
 言葉にしろ、演出指示にしろ、解釈者の主観によって、それらが何を意味するのかは変化してしまう。したがって、ある演出による舞台こそが「作品」(Werk)であり、「原作への忠実さ」であると断定することはできない。
  
 「音楽と演出は対位法(Kontrapunkt)的関係[注1]にあるのか、音楽に沿って演出を決めるのか、それともその両方であるのか」という筆者からの問いにエーラトは以下のように回答する。

最終的には、全ては音楽からのみ考える。
(中略)
実際のところ私は常に、テクストを読んだときよりも音楽を聴いたときの方が演出が浮かぶ。それは私がもとは音楽家だったことによる。私は音楽を聴くと絵(Bilder)が思い浮かんでくるのだ。音楽[ここではエレクトラの音楽を指す]はもちろんテクスト[台本]や感覚領域[台本を受けて起こる感情]の翻訳であり、私には初めから「これは何かを起こさなければならない」ということが分かっていた。なぜなら、音楽がそう求めているからだ。
(中略)
私にはいつも試みていることがある。それは上手くいくときもあればそうでないときもあるが、すなわち「耳で観る、目で聴く(mit den Ohren zu sehen und den Augen zu hören.)」ということだ。_5

 ここでエーラトの語る「絵(Bilder)」について、
 たとえ一見音楽とは正反対に思われるような絵が思い浮かんだとしても、それをきっかけに改めて音楽を意識的に聴き直し、再解釈を行うことで、それまで気づかなかった音楽の新しい側面を見出すに至り、最終的にその絵と音楽はぴったり重なり合うようになるという作品を目指していると彼は補足している。
 「全ては音楽からのみ考える」と語ったように、彼の演出に関するインスピレーションは「音楽に沿って」立ち現れるとしても、その両者の関係性は結果的には対位法的でもあると言えるだろう。


 またこの補足部分に関しては、私たち観客の立場にも当てはまることのように思われる。
 つまり、舞台芸術というジャンルに関して、舞台上における演出が自分のイメージ、そのテクストおよび音楽に関するそれまでの一般的解釈と合致しなかったとしても、私たちは即座に「原作への忠実さ」に反していると批判すべきではない。

 そのイメージの不一致に対し、まずは自らの主観を疑ってみるということ、そして時には直感的に起こった印象に従うということなど、上演を含めたその作品に「主体的に」参加するということが私たち受容者側でもやはり重要になってくるのではないか。

 一つの作品に関する新たな解釈は、決して演出家側からの一方的な提示だけでは生まれない。
 それは演出家と観客という双方向からのアプローチによって作品に迫ることではじめて生まれるのである。
 そして、新たな解釈を切り開こうとする演出家および観客の主体的な姿勢こそが、結果としてエーラトの試みる「耳で観る、目で聴く」姿勢であると言えるのではないだろうか。


*** *** ***
[注1]本来はポリフォニー音楽の作曲技法に関する音楽理論のことであり、それぞれのパートが対等であり、それぞれが独立した旋律を奏でることを指す。ここでは音楽と演出の関係性について、それぞれが独自の意味を持ったものであるのか、「歌と伴奏」のように演出は音楽の内容を補完するものであるのか、という意味で用いた。

1. Hofmannsthal, Hugo.v., 1987, p.64.
2. Richard Wagner: Samtliche Schriften und Dichtungen, Volksausgabe, Bände 1-12 und 16, Leipzig(Breitkopf&Härtel) 1911, hier Bd.7, p.130.
3. Interview., p.9.
4. 北川千香子「オペラ演出における「原作への忠実さ」について―ワーグナーの作品を主として―」(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/AN10092261/HiroshimaDoitsuBungaku_26_1.pdf), (広島独文学会『広島ドイツ文学』、第26巻、2012年)p.11。
5. Interview., p.9.

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