『Diner ダイナー』を見たよ。
見た。見たんだ。
どれくらい軽い気持ちで見に行ったかというと、入谷の朝顔市に友人と行って、なんかお洒落な小さい映画館でなんかお洒落な映画を見たいねぇ、という話をしていて気が付いたらTOHOシネマズにいた。くらいの気軽さだ。席が空いてなかったので縦に並んで見た。TOHOシネマズはいつでも私たちの味方だ。
もちろん、その日でなくても見ただろう。
というより本当は初日に喜び勇んで見に行くつもりだったのだ。気圧にやられてその日は布団の上でせんべいのものまねをしていたので見られなかった。
私は藤原竜也が大好きだし(この前のラジオで「世界が滅亡するとしたら最後に何を食べる?」という質問に対して、何も食べないと答え「研ぎ澄ますんだよ! 精神を!」みたいなことを言っていたのすごくよかった)蜷川実花が好きだ(ヴィレッジヴァンガードでのファーストコンタクトを忘れない)
さんを付けないと偉そうでむかつくね。藤原竜也さんと蜷川実花さん(以下敬称略)が好きだ。
それから、玉城ティナちゃんが好きだ。
もうティザービジュアル? っていうの? なんかポスターとかになるやつのあれ。みんな見た? 見たことある? あんの? ねえ、見た?
一瞬でめっちゃ可愛いよね!!!!!
玉城ティナちゃんはチワワちゃんで出会ってもう出来ることならばずっと見ていたいなと思った。演技がめちゃくちゃ上手いのに「めちゃくちゃ上手いです!」みたいな感じがなくてすごくよい。
(あとチワワちゃんのメイキングがすごく良かったのでチワワちゃんについてはまたいつか書きたいなー)
ティナちゃんめっちゃよかったよ。お洋服がいちいち最高だったのと、もういるだけで百点!って感じのもう、百点。語彙が溶ける。肩の丸まった猫背の感じと、声がすごくよかった。わざとらしくなく、うわずった感じの声がめちゃよかった。可愛かった。最高だった。
と、いつもよりテンションをあげてみた。
実際、この映画を見るテンションはこんな感じでいいとおもう。蜷川実花のあの映像美と、藤原竜也の藤原竜也感、玉城ティナちゃんの存在、そしてめくるめく性癖の嵐!
殺し屋だけが来るダイナーに売られた女の子が、必死になって生き残っていく見世物小屋的色彩エンターテイメントだ。色んな人間に刺さる映画だと思う。
アフタヌーンティーをしながら土屋アンナのお衣装(つまりパンモロ)のすばらしさについて多分30分は話していた。そう、お衣装も全員最高なのだ。あと俳優さんがマジでめっちゃ豪華。
しかも原作は京極てんてーのお友達の平山先生だ! 平山先生もラジオがめちゃくちゃ面白かったからまたレギュラー再開して欲しい。ただ私はグロい話と怖い話が読めないので原作が読めないのが玉に瑕だ。超瑕だ。
本題に入ります。
私は弔辞が好きだ。
もちろん自分で読むのがではない。人が誰かに読んだ弔辞が好きなのだ。よく行く図書館には弔辞全集だか追悼文集みたいなものがあって、死んだ人間にあてた文章がずらりと並んでいるのを見るとうっとりしてしまう。
非常に俗悪だと思う。
人様の喪失に対しての感情をむさぼり食って歩いて「あー」とか「うー」とか言って悲しんだり、深く感じ入ったりしているのだ。
弔辞というのはいずれ、人を作品化する危険を孕んでいる。
少し前、私も叔母が亡くなってそのことを文章にして、外に発信したのだけれど、表現してしまうことで、その人そのものが過剰になったり、欠損したりしていくのは、あまり気持ちのよいものではない。
表現、のあとにくるものは消費だ。
私は弔辞や追悼文を読み、人の死や人生を消費しているのだ。
違うと言いたい。そんな風に軽い気持ちで読んでいるんじゃないと言いたい。作品とか消費とか、そんな俗悪な感情からでなく、もっと純真な、その人への愛情だとか、何かを共有したいというような気持ちから私は――。
何もかも言い訳じみているのでやめよう。
ダイナーという映画を見て、私は蜷川幸雄を想った。
これはごく自然なことだ。額縁に入ってがっつり出演しているし、ちゃんとエンドロールにも蜷川幸雄の文字がある。井手らっきょさんが蜷川幸雄役をしている。雰囲気が出ている。
私が蜷川さんをもっとも近くで見たのは、あれはなんのときだったか一生懸命考えても思い出せないのだけれど、何かの舞台を見に行ったときに、ブザーが鳴る前に役者さんが客席を歩き回っている演出があって、その時に蜷川さんも客席にいて、私はものすごく興奮して「蜷川さんだ! 蜷川さんだ!」と暗闇の中で口をぱくぱくと動かしたのだった。
蜷川さんを知っている自分というのを、見えない世間に誇示したかったお年頃だったのだ。
あと、ものすごく重い荷物を持っている時に、バイト先の先輩から「蜷川さんが文化村の近くのパン屋にいた」という話を聞いた瞬間、それが私にとってもっとも近くに蜷川さんを感じた時間である。
それは物理的な距離として、心理的な距離では常にもっと近くにいたと言いいたい。本当は、ものすごく遠いのだけれど。
初めて見た舞台の演出が蜷川さんだった。先にも書いたかもしれないが「シブヤから遠く離れて」である。私はあれを見て岩松さんと、蜷川さんついていこうと決めたのだ。
しかし、大人になって考えてみると、蜷川さんと岩松さんはめちゃくちゃ遠い。私の中では同じ場所にいるけれど。結構遠い。まあそれはいい。
出来るだけ蜷川さんの舞台を見に行こうと決めたのは、だから私が十七歳の時だ。舞台は生もので、本当にその時、その一瞬をその場で感じることでしか摂取できないのだと教えてくれたのは蜷川さんだった。
ただ私のような人間の出来るだけ、というのはたかが知れている。
もっと見に行けばよかった、と何度も思っている。最後に見たのはハムレットだ。愛していると思った。
ごく自然な流れとして、藤原竜也の舞台も出来るだけ見に行こうと思っていた。ごく自然に、見たいと思ったから見に行った。それには蜷川さんが好きだからという思いもあった。
私にとって藤原竜也は藤原竜也以外の何者でもないし、それと同時に蜷川幸雄でもある。蜷川幸雄を抜きにしても藤原竜也のことが好きだと言い切れるが、そんなことに果たして意味があるのかどうか。
何も知らないけれど、切っては切れない間柄なのである。それは、私の中でということだ。外から見た冷静な批評というのではない。
で、ダイナーを見て、蜷川幸雄を思って泣いた。
藤原竜也の蜷川幸雄に向けた弔辞を読んで泣くことを、私はどこか後ろめたく感じている。それこそ消費じゃないかと思う。それでも、どうしたってなんども読んでしまう。何度も考えてしまう。
その弔辞の中に、「ハムレット」の稽古中のカセットテープを、公園で一人で聞き返していた、という文言がある。恐ろしいほどのダメ出しの数だと。
何かのドキュメンタリーでそれを見た。また何のドキュメンタリーだか失念してしまった。おうちにあるけれど、どこにあるのかわからない。つい最近見たのに今、近くにいない。ともかく、恐ろしいほどのダメ出し、の一端を映像として見た。
今分からなくてもいい、というようなことを蜷川さんは言っていた。それでも全部いうのだ、という気概があった。
ダイナーという映画を見て、完全にその時のことが腑に落ちた。
絶体絶命、生きるか死ぬか、時間との戦い、という映画の終盤、藤原竜也演じるボンベロは、なぜかティナちゃん演じるオオバカナコ(可愛い)に料理を作らせる。
はたから見たら、全然そんな場合ではない。詳細は省くが、めちゃくちゃ大変、超やばいのである。強い殺し屋がすぐそこまで来ているのだ。
でもボンベロは料理を作らせる。
それにこちょこちょと、あーだとか、こーだとか、よいとかよくないとか、そんなようなことを言う。そして、その言葉を懸命に聞いて、オオバカナコは料理を作る。一つ一つの言葉を飲み込むように聞いて、作る。
二人は別れる。
その後もオオバカナコは料理を作り続ける。
これはそういう映画だった。受け継がれていく、と表現してしまえばそれまでで、なんだかものすごく簡単なこと、というより、ありふれたことのように聞こえてしまいそうだ。
人は絶対に死ぬまで一人で、一人きりの感情を抱えて生きていかなくちゃならないけれど、他人の言葉を自分の中で生かすことは出来る。どこまでいっても「分かる気になる」ということにしかならないけれど、時間を飛び越えて繋がることが出来る。
私が人の弔辞を読むのは、その繋がりのおこぼれをもらいたいからなのかもしれない。だってずっと一人で生きるの寂しいから。
誰に当てた言葉でもいいから、私の中にもいかしておきたいのだ。
ということを! 思ったんでした!
いつも締めがうまく思いつかない。どうやって締めてたんだろう。とりあえずわたしはもう眠いので眠ろうかと思う。本当に唐突で申し訳ない。崖から落とすみたいな終わりで。
そんなこんなで、ダイナー、ぜひみんな見てくれよな!
あるか分かりませんが、サポートがあったら私はお菓子を食べたいと思います!ラムネとブルボンが好きです! あと紅茶!