劇場版シティーハンター <新宿プライベート・アイズ>の感想

劇場版シティーハンター <新宿プライベート・アイズ>」を見てきました。いろいろ思うことがあったので忘れないうちに書き留めておくことにします。
 たぶんネタバレはないと思いますが、私自身がネタバレを気にしない人間なので、配慮の足りない部分はあるかもしれません。その辺は覚悟完了ということでひとつよろしくお願いします。

 私はTV版シティーハンターを見て育ち、ご多分に漏れず第1期エンディングテーマGet WildからTMNetworkに入ったような人間であり、本作にはかなりの思い入れがあります。
 そういう目で見たからなのかどうなのか、私はとても楽しく観覧できましたし、思わず腹を抱えて笑ってしまい、周囲の観客の方にもしかしたらご迷惑をおかけしてしまったかもしれません。
 本作の内容について、いわゆる「ツッコミ」を入れるところはいくらでもあります。一番大きくわかりやすいのは、悪役の頭の悪さでしょうか。まさにこれから世界を牛耳らんとする野望を持ちながらも、私情で大損害を出すのはどうなんだとか、「戦況を一変させる」という触れ込みの戦闘兵器の機銃掃射がまったく当たらない、命中精度低すぎじゃないかとか、素人の私にもこれはどうかしらと思う点もあります。
 でもまあ、面白いんだからそんなことはどうでもいいんですよ。

 面白いんだからそんなことはどうでもいいんですよ、と考えたところで、この「面白い」というのは、つまり「(古き良き)時代劇の面白さ」なのではないか、と感じたわけです。
 暴れん坊将軍を見ていれば「将軍様がこんなところにいるはずがない」なんてのは見ているこっちも思うくらいで、まあそんなのはどうでもいいわけです。松平健が悪漢どもと切った張ったをし、美女と惚れたはれたをし、大立ち回りの末に事件を解決し、最後にマツケンサンバを歌って踊れば観客は満足なわけです。細かいことを言えば暴れん坊将軍のエンディングはマツケンサンバではありませんが、そういうのも細かいことです。
 実際本作もそうです。止め絵でアスファルトがタイヤを切りつけ、一人では解けないパズルを抱いている頃にはもう細かいストーリーなど忘れていてもかまわないのです。Get Wildはマツケンサンバなのです。

 近年「真田丸」や「この世界の片隅に」など、細かい時代考証が評価された作品が多く出ています。その一方で細かい考証に縛られて大衆娯楽活劇としての時代劇が廃れつつあるという指摘もあります。考証が不十分なせいで興が覚めてしまうということもありますが、フィクションはしょせん虚構なのですから、嘘をつくところでは嘘をついてよいわけです。
 本作についても先述の通り頭の悪い武器商人がいるんですが、狡猾な武器商人が見たかったら、「BLACK LAGOON」や「ヨルムンガンド」を読めばよいのです。ちなみにこれらはこれらで私の好きな作品です。
 時代劇で同時代に生きていない石川五右衛門と葛飾北斎なんかを一緒に出してもいいように、何の説明もなく冴羽獠たちが2019年にいたり、キャッツアイのメンバーが出てきたりしてもいいのです。2019年のファッションシーンで小室哲哉の歌はどうなんだとTKファンの私でも思いますがそれもまあどうでもいいのです。
 なんとなく知ったキャラクターがどこかで見たことあるやり取りをしてああよかったねで終わる。これは時代劇を含めた大衆娯楽であり、いわゆる吉本新喜劇にも見られる構造でもあります。
 関わったスタッフの方のつぶやきで、旧作時代のガンアクションを「このやり方は銃の精度を落とすので冴羽獠はやるはずがない」とこだわって改めた部分があると聞きました。もちろんそうした細部へのこだわりを評価しないわけではなく、アニメーターさん声優さんたちもみな新しい作品へ命を吹き込むために大変な努力をしたとは思うのですが、それはそれとして「いつものもっこり獠ちゃん」を見て安心して笑える、そういう作品になっていると感じました。


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