研究日記
おれは研究が苦手だ。それなのに大学などという退廃的な場所に通って研究などというものをしている。意味がわからない。今日はおれの研究を料理に例えて説明してみようと思う。なぜそんなことをするのか?書かねばならない論文の〆切が迫っているからだ。人間は現実から逃げる生き物である。おれは人間である。だからおれは現実から逃げる。明確な三段論法である。以上。さて、説明だ。ここに包丁がある。そして、とてもとても固い食材がある。岩より固い肉だ。これを包丁で切るのは無理だ。刃が通らない。しかしそのまま丸ごとでは食べられない。この食材は皮を剥いで賽の目切りにすると大層うまいのだ。それはもう絶品だ。人類はこういった状況を強い刃物をつくることで解決してきた。強い刃物とはどういうことか?まずは刃物の硬度を上げることだ。しかし、それには限界がある。なぜなら「硬い」と「脆い」は紙一重だからだ。硬くして強くすればするほど脆くなる。ガラスと布のような関係だ。ガラスは硬く脆い。布は硬くないが柔軟だ。つまり包丁でも同じことが言える。硬すぎる材料を使えば、それだけ壊れやすくなってしまう。そこで、次の手段である。刃物を薄くするのだ。刃物の刃先というのはどの程度まで薄いのだろうか?たとえば刃先の厚みが1cmあるのは刃ではなく鈍器だ。1mmでも刃とは呼べない。0.1mmになってようやく刃らしくなる。0.01mmなら?0.001mm(=1μm)なら?どんどん薄くすればするほど切れ味は上がる。極限まで薄く鋭くすればいいのだ。しかし「薄い」と「脆い」もまた紙一重。どのように強い材料を使っても、刃が薄ければ薄いほど欠けやすくなることに変わりはない。結論は「材料を硬くしても刃を薄くしても無駄」だ。つまり!!!包丁を使うからダメなのだ!!包丁ではなくもっと画期的な刃物を開発すればいい?いや、刃物に頼っている時点で既存の枠組みから脱却できていない。もっと頭を柔らかくするのだ。そう……物理的な刃で食材を切断する時代は終わった!これからの時代は……化学だ!そう、食材に物理的な手段ではなく化学的な手法でもって不可逆的構造変化を施す!化学の力で食材を原子レベルで分解・除去・切断するのだ!それなら食材の固さなど関係ない!!と、ここまでが導入だ。おれの研究は、硬くて切れないけどおいしい食材を化学的に切ってしまおうというものだ。今のところ、数μmは切れた。肉眼では見えないレベルだ。これ以上は切れない。しかしもう時間がない。これで論文を書くしかない。すでに何時間か無駄にしてしまった(こんなものを書いているからだ)。この研究が何の役に立つのか?そんなことはわからない。この先ずっと何の役にも立たない可能性はある。いや、その可能性のほうが高い。しかし、いつかどこかでまったく別の研究をしている誰かが、この結果を見て何か閃くかもしれない。何年後かの研究者がこれを参考にして新しい研究を始め、それが身を結ぶかもしれない。研究というのはそういう横断的な側面が強い。やったことが一瞬で結果に結びつくことなどゼロに近い。それでも我々は研究をするのだ。いつか誰かの役に立つと信じて……たとえ、そのいつかが数十年後であろうとも。広く強固な土台の上に初めて高い塔が建つのだから。いいこと書いたな。今日はもう論文書かなくていいな。よし。