食洗記

 2024年、冬。
 この冬はぼくらが生まれて初めて食洗機を買った年として歴史に刻まれるだろう。
 その衝撃を一言で表すのはひどく難しい。言うなれば、それはアイデンティティの喪失だった。

  *

 食洗機とは食器洗い乾燥機の略で、その名前からは想像もできないかもしれないが、なんと食器を洗って乾燥させてくれる機械だ。
 食器を洗って乾燥させるというのは何でもないことのように聞こえるかもしれないが、実際はなかなかむずかしく、食器洗い担当のぼくでさえ平日は三日に一度ぐらいしか成功しない。へろへろになって帰宅し、ごはんを食べて満足し、ちょっとだけ横になったら不思議と朝になっているからだ。皿はカピカピだし電気はつけっぱ。おまけに、これを何度か繰り返すとあれよあれよという間に一週間が終わる。それをさらに何度か繰り返しているうちにカレンダーはめくれ、箪笥の中の服の袖は長くなったり短くなったり、そうしてぼくらはまたひとつ大人になっていく。
 だけど変わらないものもある。どれだけ大人になったって皿洗いは苦手なのだ。できることなら、お皿を洗わずに生活したい。どれだけ赤いほうに捻っても蛇口からお湯が出ないというこのボロアパートの特性も、その気持ちに拍車をかけていた。
 そういうわけで、折よく入ったボーナスでせめて税金以外の何かを払いたいという気持ちも後押しして、ぼくらはついに食洗機の購入に踏み切ったのだった。

  *

 店頭で「買います」と宣言した次の次の日にはもう食洗機は家に届いていたらしい。
 なぜ「らしい」なのかというと、ぼくが出張で関東に行ったり関西に行ったりして家をしばらく空けていたからだ。まさしく西高東低というやつである。東奔西走だったかもしれない。
 ともかく、ようやく出張を終えて帰ってきたぼくの目に映ったのは、どっしりとした食洗機と妻氏が床に転がっている風景だった。(ここで妻氏の名誉のために明言しておくが、この「どっしりとした」という形容詞は『妻氏』という名詞にはかかっていない)
 どうやらハムスターのごとく非力な妻氏は自力での開封を試みたものの、食洗機を冷蔵庫の直上へ持ち上げるだけの位置エネルギーを与えること能わず、なんとか段ボールから取り出したところで力尽きたらしい。ぼくはひとまず食洗機を抱え起こし、妻氏を冷蔵庫の上に載せた。そうして食洗機をまじまじと観察してみた。

 食洗機には分岐水洗式とタンク式とビルトイン式がある。
 分岐水洗式かビルトイン式がよかったのだが、現実は残酷だ。ぼくらが買ったのはタンク式で、自動汲み上げ機能もないモデルである。一度の洗浄に使う水はおよそ5.2Lだという。
 つまりこれからは冷蔵庫の上に鎮座する食洗機の上の、床からおよそ170cmの高さに位置する注水口に、どうにかして5.2Lの水を注ぎ入れるという作業を要求されるのだ。それも、家でごはんを食べるたびに。
 妻氏は冷蔵庫の前に立ち、精一杯の背伸びとともに鎮座する食洗機を睨みつけ、注水口を探して視線を彷徨わせ、そうして極めて端的に「見えない」と述べた。
 踏み台の購入を決意しつつ、ぼくはある種の感動を覚えていた。食器を洗うという極めて面倒な作業がボタンひとつで完結するなど、やはり夢物語だったのだ。そんなうまい話には必ず裏があるに決まっている。どれだけ文明が発展しようとも苦役はかたちを変え、そこに在り続ける。食洗機を使うというのはきっとそういうことなのだろう。勝手にお皿を洗ってくれる代わりにぼくら自身の手で水を汲み、洗剤を補充し、使い終えた食洗機を拭き上げる必要がある。しかしそれでも――ぼくらは顔を見合わせ、頷いた――お皿を洗わずに済むのなら、この程度の苦労は安いものだ。

 水を汲み、爪先立ちになって食洗機へ注ぐ。これを三度繰り返すと、電子音が鳴る。それが儀式の始まりを告げる音だった。
 ぼくらは食べ終わった食器たちを、まるでこれから神へ奉納するかのようにおそるおそる捧げ持ち、食洗機の中の籠へと並べた。
 籠の中でそのときを今か今かと待っている食器たち。眩しいLEDに照らされ、夕食のトマト煮の汁は「俺を落としてみろ」と言わんばかりだ。
 説明書と食洗機のあいだで視線を三度往復させ、ぼくはもったいぶって電源ボタンを押した。
 そうして、ついに食洗機が動き始めた。
 ガラスの扉の中に、突如として水が渦巻き、溢れ始める。やがて、食器たちを置いた籠の下から洗剤混じりの水が噴き出した。水は皿に当たらず、変な角度で噴き出してガラス扉を内側から曇らせている。
 何かおかしいぞ、と思ったぼくは一時停止ボタンを連打し、扉を開けた。
 真相は目の前にあった。滑り落ちたヘラが籠の下の回転部に挟まり、回転を妨げていたのだ。
 食洗機の構造はとても単純だ。扇風機の羽から水が噴き出しているところをイメージすればいい。扇風機の羽がくるくると回ることで水の噴き出し位置が変わって、皿の汚れを満遍なく落としてくれるのだ。
 ヘラを回収し、扉を閉めると、食洗機は今度こそ正常に動き始めた。様々な角度で泡混じりの水が噴き上がり、皿に衝突する。洗車の風景を見ているようで、なんだか面白い。
 黙々と初仕事をこなす食洗機を、妻氏と二人でしばらく眺めた。「えらいねえ」と妻氏が食洗機を撫でた。たしかにえらい、と思った。いくら命令されたとはいえ、食器を洗うという苦行をここまで平然とこなせるものだろうか。きっとぼくにはできないだろう。
 ぼくらはガラス扉の中で踊る水流を眺め、食洗機のかすかな唸り声に耳を澄ましながら、いつまでもそこに立ち尽くしていた。

  *

 ぼくらが食洗機の存在を忘れかけた頃、ようやく洗浄が終わった。3時間。3時間かけて、食洗機は食器たちを丁寧に洗って乾かしてくれたらしい。
 頭の中の天秤がゆらゆらと揺れる。ぼくにもこれまで食器を洗ってきたという自負がある。なるほどなるほど、スピードではこちらの勝ちのようだ。ではクオリティを拝見しよう。
 扉を開け、皿を一枚取り出してみた。
 天秤の傾く音がした。
 緑色のガラスボウルが、澄んでいる。この皿の向こうの景色がここまで鮮明に見えたことが、いまだかつてあっただろうか? ガラスが本来の透明度を取り戻し、自信を取り戻した、そうとしか形容のできない輝きを放っている。
 慌てて他の皿を手に取ってみる。長年使い続けたシチュー皿は、こんなにくっきりと発色していただろうか。春のパン祭り皿は我が家に貰われてきた当初の美しさを湛え、陶の茶碗の側面を指で撫でると「キュッ」と素敵な音が響く。
 ぼくらは電灯の光の下で感嘆の吐息を溢しながら、中世の小役人のような手付きで皿を一枚ずつ検分した。ぴかぴかに輝く食器たちが、久しぶりに大浴場で汗を流したあとのようにすっきりとした顔で戸棚に並んでいる。

「食洗機って、すごいね」

 妻氏が呟いた。

「うん」

 ぼくは認めざるを得なかった。スピードとクオリティだなんて言っていた自分を恥じた。天秤は傾きすぎてとっくに破損している。食器を洗う、という行為においてぼくが食洗機に勝つことはできない。これまでぼくが洗っていた食器は、洗っていると自分で思っていただけで、実はまったく洗えてなどいなかったのかもしれない。それほどの衝撃だった。
 提唱していた自説をひっくり返す実験結果を受け取ったばかりの宇宙物理学者のように、ぼくはその場に立ち尽くすしかなかった。

「食洗機って、すごい」

 ぼくは機械的に復唱した。

  *

 我が家の一員として、食洗機はたった一度の食器洗いでその地位を確立した。
 一方ぼくは食器洗い担当としての地位と自信をすべて失ってしまった。アイデンティティの喪失。もう、名前と誕生日とキュートな指紋ぐらいしか残っていない。
 だけど――ぼくは考える。これも代償だ。食器を洗わなくてよくなった、その代償。そうだ、何を悩む必要があるのだろう。ぼくはもう食器を洗わなくていい。悴む指を堪えながら冬の冷たい水でお皿を濯がなくていい。それは紛れもない事実で、何にも勝るよろこびなのだから。
 そのとき、妻氏がぼくの肩を叩いた。

「じゃあ、お鍋洗ってね」

 食洗機に入らないものは、洗えない。当たり前だった。人生って、そういうものだ。

 冷たい水で鍋を洗いながら、傍らに鎮座する食洗機に語りかけた。互いにできることとできないことがある。補い合って、毎日を乗り越えようじゃないか。大丈夫、ぼくらはきっと、うまくやれる。
 食洗機が低く唸った。
 そして、お皿を洗うのに使ったほかほかのお湯を排水ホースからびゅっと吐き出した。

「あっつ!!」

 ぼくは悲鳴を上げた。

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