VR日記
VRとかいうやつが話題になっている。おれは勤勉なのでVRについていろいろと調べたのだが、巷でVR元年と呼ばれているのは2016年。VRの研究自体が始まったのは1960年代。まったく、そんなに前から話題になっていたとは知らなかった。おれは世事に疎いのだ。ともかくVRというやつはとてもすごいらしく、しかし何がどうすごいのかと言われれば、やってみればわかる類の、つまりはやってみないとわからない類のすごさであるらしい。さいきんは映画も3Dで上映されていたりするが、あれと似たようなものだろうか。何かよくわからないけれどすごい技術らしい。きになるな。ああ、VR。スマートフォンが登場したとき、電話が登場したとき、蒸気機関が登場したとき、きっと当時の市井の人々はおれと同じような感想を抱いていたのだろう。さて、話は変わるがおれは人格者なので友人がいる。しかもひとりやふたりではない。最低でも三人以上いるのだ。これが人格者の証明でなくて何なのだろう?いや、そんなことはどうでもよい。とにかくおれには友人がいる。もう少しだけ具体的に話すとすれば、おれにはVR機器を所持している友人がいる。VRという技術を楽しむためには頭にはめるゴーグルのような機器、両手に持つコントローラ、そしてパソコンやプレイステーションなどが必要となるのだが、おれの友人は奇跡的にそれらをすべて所持していた。富豪である。「VRなるものを知りたい」と押しかけたおれに、友人は「よかろう」とスカスカのヘルメットのような物体をすぽんと被せてきた。部屋の中に立っていたはずのおれは、次の瞬間、果てしない暗黒の中に浮かんでいた。やがて光が現れた。手を伸ばせば届きそうな位置に星が浮かび、滝は流れ、草は風に揺れていた。おれは広大な風景の中に立ち尽くしていた。心底驚いた。これがVRか。仕組みはわかる。仕組みはわかっていても、脳は易々と騙される。目に映るものはすべて確かにそこに”在る”。それらが現実でなくて何だというのか。なにせコントローラによって触れ、干渉することも容易なのだ。手元にある物体を掴み、投げ、破壊することさえも。ピン球とラケットがあった。ラケットでピン球を打つと見慣れた軌道で飛んでいった。六年ものあいだ卓球部に所属していたおれに言わせれば、あれはもう現実だ。現実のピン球を打ったときとの違いは、手に伝わる打球感の有無だけだった。ひととおり遊んでからヘッドセットを外すと、強烈な違和感とともに見慣れた景色が戻ってきた。さっきまでいたはずの場所と違って、変に生々しく映る。現実以上の現実感とでもいうのだろうか。こちらが現実であることを脳がしばらく認識しようとしない。脳にとってはどちらも現実なのだ。VRでは現実を完璧に再現する必要はない。脳さえ騙せればそれは現実になりうるからだ。近い将来、どちらが現実なのか本当にわからなくなるほどの没入感が生まれるだろう。フルダイブできるようになったVRは、いわば理想の現実である。理想と現実は対義語であり相反するものだったはずが、いいとこ取りの第三者が誕生してしまった。VR、おそろしい技術である。ヘッドセットを身につけ、奇声を上げながら両手に握ったコントローラを振り回す姿をすべて友人に見られていたことも含めて。うむ。おそろしい技術である。