気持ち日記
上から水滴が落ちてくるので家から出ないことにした。外は水浸しになっていて、しばらく乾きそうにない。水が落ちてくるのはこれが初めてのことではない。何日も続くこともあれば数時間で終わることもある。今回はどれくらい続くだろうか。……といった感じで「雨の概念を知らない人間」の気持ちになって日記を書こうとしたが、数行で挫折してしまった。おれは人の気持ちになって考えるというのが苦手なのかもしれない。本ばかり読んできたせいだろうか。もっと人間と関わるべきだったのかもしれない。いや、違う。おれは太古の昔より人間と関わってきた。崇められ、畏れられ、時には友として。だが人の寿命は短い。どれだけ仲良くなろうと、愛を交わそうと、すぐにいなくなる。おれを残して。もうあんな思いばかりするのは嫌だ。だから外に出ずに過ごしてきたのに。お前も……どうせお前もおれを残して消えてしまうんだろう。ならばいっそ、お前も今この場で!……といった感じで「人間との関わりに飢えつつその喜びが大きいほど反動も大きいことを知っているがゆえに躊躇する神」の気持ちになって書こうとしたら、そこそこ書けた。なるほど、人の気持ちになって考えるとはこういうことなのかもしれない。人ではないけども。しかし、人間は孤独に耐えられないのだから上位の存在もそうだろう、などと安易に推測していいのだろうか。人ではない存在の精神構造が人と同じ、などどということがあり得るのだろうか?人間の尺度で推し量ろうとするのがそもそも間違っているような気さえしてきた。しかしおれは人間なので人間の尺度しか知らないのだ。とはいえ、己より程度の低いものと対峙したときの行動にそこまで違いはないはずだ。人間なら相手の行動を己の尺度に当てはめて理解し、相手の尺度に合わせて返す。尻尾を振って近寄ってくる犬がいれば、自分の中の「喜び」「親しみ」と似たような感情であることを類推し、犬にも伝わるよう「撫でる」という行為で返答するだろう。人間より上位の存在も同じだとしたら……言語などという原始的な手段でしか思いを伝えられない人間に対し、同じ言語で以て返答しようとしてくれているのだとしたら……それがつまり「お告げ」になるのではないだろうか。意味が伝わりづらい予言、不親切な言葉の羅列、抽象的な神託……あれはつまり人間に理解できるよう、上位存在が返答の形をとして普段使わない言語などというコミュニケーション手段を用いた結果なのだ。そして言語に頼らない返答として「ご利益」「神風」「恵みの雨」などがあるのだろう。なるほどそういうことか。人間が犬の気持ちを完全には理解できないように、神も人の気持ちを完全には理解できない。犬が「そこを撫でてほしかったわけじゃないのに」と思っているとき、人間も「こういう形で縁を切ってほしかったわけじゃないのに」などと思っている。ちゅーるが食べたいのに猫缶が出てくるし、神頼みは成功したりしなかったりする。異文化コミュニケーションはかくも難しい。何を書いているのかわからなくなってきたが、犬であれ人であれ神であれ、相手の気持ちになって考えるのは大切だということだ。思いやりのある存在になろう。