野球を見に行って野球を見なかった話。
旧暦はもう冬、いよいよ秋めいてくるくらいなはずなのにまだまだ季節が半袖を求めてくるのだ。そんな日に母校の紫合戦へ。(立教と明治の定期戦のことをこのように別名で呼ぶことがある。)もちろん母校は応援するが、おそらく今年のドラフトで3球団くらい競合するであろう明治のショート宗山塁を大学時代から見ておき、「大学時代から俺は知ってて…」という有識者のふりをしたかったのはまた別の話だが。
※すみません、1か月くらいさぼってました。
この試合、試合を見に行ったが試合を見なかった。なぜなら立教・明治の新聞部の友人と一緒に行って昔話に花が咲いたからだ。(気づいたら立教は8点も取られていた…)
まあ、野球というのは適当でも楽しめる唯一といっていいスポーツだから。かじりつくように見なくてもゆったりとした流れで大枠をつかめば楽しめるうえ、明らかなターニングポイントを抑えてみればほぼ試合の全容を知ったようなものだ。だから見なくても全然OK。
そう、試合より今日大事なのは大学の久しぶりに会う友人と一緒だったこと。それで思ったことをバラバラまとめてみようと思う。
1つ、4年間やるということ、身につくとはこういうことか。特に新聞部の活動を一生懸命やっていた仲間たちから感じた。既に卒業してから2年ほど経っているのに新聞を広げるといろいろと気付くことがあるし、それがどのように良いor悪くてそれはどこに立ち返れば確認できるのか? 全体像をひとりで組み立てられて、それぞれのポイントを抑え、そのポイントを何もむずとも勝手に手が動く状態それを仕事でもまず目指すべきだなと思った。逆に新聞部くらいになれば会社を辞めてもぜんぜんOKだなと会社を辞めるラインが少し見えた気がする。
2つ、自分のすべてを知っている友人は大学生までなんだとその存在がいかにありがたいことか。会社という組織は、大学の部活動と比べると一緒に過ごす時間は長いかもしれないが、それにはお金という利害関係のなかでしかない。結局は、仕事ができないとそこに私が存在している意味を問われ続けることになる。生活がかかっているといいつつ、その生活には介入しないという矛盾をはらみつつ、葛藤をしていくことになる。
それに対して、大学というのは自由の学府である。責任というものがないわけではないが、お金という利害関係がなかったことは人と人との関わりを豊かにする。だからこそ、ALL OKだと思われているというわけではないが、どんな姿を見せたとしても受け入れてもらえる環境であったのだ。自由というと自発的なものかと思いきや、大学という環境は受け入れ側の寛大さという自由がなにより大切なものであったことを気付かされた。
また平坦な日々が始まっていく。この平坦な日々に山と谷(谷はなくていいが…)を作るのは自分自身である。そして自分が山を作る側である星であるのかもしれないと思ったので、12月まで自分の生活にどんな起伏が作れるか考えていることはやってみようと思う。
※すみません、記事1か月くらいサボってました。