神風に散る桜 ―チェリーブラッサム―

 互いの親が決めた縁談、そんなことはただの些事だ。僕はきみのことをすぐに好きになった。

英男ひでおさん、私、いつかあなたと一緒にあの曲を踊りたいの」

 きみは僕の名を呼ぶ時、照れたように小首をかしげた。その仕草はとてもかわいらしかった。

「ああ、チェリーブラッ……、いや……、あの曲だね」

「ええ。……いつか、踊れる日が来るわよね」

「そうだね、いつか、きっと」

 気恥ずかしくて確認はできなかったが、きみも僕を好いていてくれると感じていた。だが、本格的に我が国が参戦した戦争が始まり六年が経とうという頃、召集令状が届いた。書かれていた名前は『芹沢せりざわ英男ひでお』。それは間違いなく僕のもので、噂に聞いていたとおり、赤い紙だった。

 戦地に立つ日、きみは僕と一緒に駅へ出向いてくれた。

「英男さん……、きっと……」

 そう言うと、きみは口を噤んだ。その先は言っても詮無きことだとわかっているのだ。よく気の付くきみらしい。

「笑って、もらえませんか。僕は志乃しのさんの笑う顔を見たい」

「……はい」

 きみは僕を見上げ、微笑んだ。わずかに青ざめた頬が持ち上がり、薄く涙が溜まった目が細められる、美しい微笑み。清らかで静かな強さが、きみにはある。

「ありがとう。どうか、お元気でいてください」

 毎晩思い返すこの場面を、僕は最期を迎える瞬間にも瞼の裏に蘇らせるのだろうか。

 ◇◇

 第七小隊に所属する僕は、自身が当日機乗する予定の陸軍四式戦闘機のそばに、上官である憲兵少尉けんぺいしょういの立ち姿を見た。

斎藤さいとうさ……」

 やけにその姿が小さく見え、思わず気軽に声を掛けそうになった。厳しい叱責が飛んでくるかと身構えたが、彼は僕を一瞥してすぐに立ち去った。その背中はとても一言では言い切れぬ感情を背負っているように見え、僕に乾いた唇を噛みしめさせた。悔しい思いは皆同じなのだ。

 これまで幾度も戦勝国としての名を刻んできた我が国の形勢が傾き、もう二年以上が経つ。国のためだと、贅沢は敵だと、とにかく敵を倒せと、そればかりを聞かされ、偉い政府関係者も軍の上層部も、最近はだんまりだ。そんな息苦しい中でただ一つ下された命令は、「体当たり攻撃をしろ」だった。

 コンコン、と扉を軽く叩く。

「第七小隊二等兵、芹沢英男、参りました」

 「入れ」との言葉を確認し、僕は扉を開け、室内へと入る。そこには立派な椅子に身を預けた斎藤少尉がいた。

「ご苦労……と言いたいところだが、第七小隊ではなく、神風特別攻撃隊かみかぜとくべつこうげきたいという名称を使うべきなのかもしれないな」

 ふっと笑う口元に、嘲りの感情が見てとれる。

「他の二等兵たちはどうしている?」

「はっ、皆、明日に備えて心頭滅却を図るべく……」

「ははっ、心頭滅却、か。そりゃいい」

 ひとしきり乾いた笑いを上げ、斎藤少尉は腹をさする。顔はまだ笑んでいる。笑んではいるが、その両肩は落ちている。

「命令だからと、敵とはいえ命を奪い、家族を置いたまま幾年も帰らず、たまに送る手紙にも大したことは書かず……その結果が、このざまだ」

「少尉、それは……」

「若い命を庇うこともできていない。いっそ、私の命と引き換えに何もかもを終わらせてくれと、最近ではそんなことばかりを考えるよ」

 斎藤少尉が浮かべる嘲笑が、深くなった。

「だが私一人が命を差し出したところで、何も……何にも、なりはしない」

「はっ……、しかし、女子供は戦闘には参加いたしません。若い命は、これからも国のために生まれてくることでしょう」

「私にとっては、子供と同じだ。きみも」

「……子供、ですか」

「ああ」

 力なく答える丸まった背中が、疲れを感じさせる。額にしわが刻まれた顔は土気色で生気がない。その肩章を飾る一つ星の輝きが、少々濁っているようにも見える。

「伝えておいてくれ、明日は午前七時集合だ。天候は、気象部予報班によると晴れるらしい」

「はっ、かしこまりました」

「以上だ」

「は。では、失礼いたします」

 回れ右をして扉を出ると、一礼しパタンと閉める。もう慣れた動作だ。

『おまえは落ち着いているな。もともとの性分か?』

 そんな問いを掛けられたこともあったな、などと、学校へ通っていた頃のことが無性に懐かしく思い出された。

 ◇◇

 出立の時は来た。午前七時に集められた僕らは上官の命令に従うべく、ぴしりと姿勢を正し、身じろぎ一つせず斎藤少尉を目で追う。陽光の下、彼の鉄緑てつみどり色の勤務服には、その右肩から下がる金色の飾緒しょくちょが威厳を新たにしている。勤務服を着ると遠目からでも引き締まって見えるのは服布の端に施された繊細な縁取りのおかげだと、誰かが言っていた。そんな些細なことを、この期に及んで思い出すのは何故なのか。

「貴様らの活躍で、この大日本帝国はきっと敵国に勝つ。貴様らはそれを信じるだけだ! 神風となれ!」

 昨日とは打って変わって、厳しい表情で彼は僕らを睨みつける。神妙な面持ちの僕らが身に付けているのは、ほとんどが国民服だ。開襟の、何の飾りもない簡素な服。それでも、支給されるだけありがたかった。配給品を入手するのに必要な点数など、今となっては何も意味を持たない。若輩者の僕から見ても、市井は混乱しすぎている。

 軍靴に付着する砂埃、鮮やかな色などどこにもない海松みる色の国民服を着た兵士たち。太陽光にきらめいているのは、斎藤少尉の右上半身と戦闘機の金属部分のみだ。こちらを攻撃したいのかとも思えるくらい眩しいそれらは、僕の目を容赦なく刺す。

 前列の二等兵なかまの背中に、一枚の薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちた。もう春は過ぎ、暑い季節に差し掛かっているということを一瞬忘れるくらいの美しさだった。どこからやってきた、何の花びらなのか確かめる間もないまま、号令が響く。

 訓練どおりの行動が始まり、第七小隊――もとい、神風特別攻撃隊の面々がそれぞれ戦闘機に乗り込んでいく。僕も皆と同じように、硬い座席に乗り込んだ。

「さあ、行こう」

 明るく独り言をつぶやくと同時に、大きな風切り音を立てて先頭の機が飛び立った。補充された燃料は半分以下だと聞いている。片道しか必要ないからだ。それでいい、それでいいのだ。きみを遺して逝く僕にとって、きみの生きるこの国に負担をかけることは本意ではない。

 実は結ばれていない。わかっている。僕は何の実も結ばずに逝くことになる。敵国になど勝てるわけがない。皆、わかっているのだ。口に出さないだけで。

 一緒に踊れなくてもいい、ただきみの笑顔を見たいと乞い願う。もう一度、一度でいいから会いたいと。熱望、切望と言ってもいい。あの透明な強さ、清らかさ、頬を飾る薄紅色、意志を宿した目、それを僕に向けてくれるという安心感と優越感――

「来たぞ!」

 誰かが叫んだ声が、風や原動機の音でかき消されることなく、僕の耳に届く。まだ、生きている。僕はまだ生きていた。

『ありがとう。どうか、お元気でいてください』

 僕の言葉に、きみはこくりと小さくうなずいた。

 誰かが誰かを思っている。斎藤少尉は、家族を、そして部下を思う優しい人だ。だが戦争が彼を変えた。厳格に、強くあれと。

 僕はきみを思う。人々の思いが連なり、国はできていく。そんなことを死の間際に思う。

 清らかに。

 きみの、薄紅色の頬を、僕は夢に――

 ◇◇

波多江志乃様

 一緒に踊る約束を守れないこと、申し訳なく思います。
今はただ、志乃さんの健在を祈っております。
 何か知りたいことがあれば、鹿児島陸軍航空隊第七小隊、斎藤憲兵曹長に便りを送って下さい。
清廉な志乃さんに、幸多かれ。
 知覧特攻基地にて

昭和二十年五月十五日
鹿児島陸軍航空隊第七小隊二班二等兵 芹沢英男

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