神風に散る桜

「英男さん……、きっと……」

 そう言うと、きみは口を噤んだ。その先は言っても詮無きことだと。よく気の付くきみらしい。

「笑って、もらえませんか。僕は志乃さんの笑う顔を見たい」

「……はい」

 きみは頬を染めて僕を見上げ、微笑んだ。わずかに頬が持ち上がり、薄く涙が溜まった目が細められる、美しい微笑み。清らかで静かな強さが、きみにはある。

「ありがとう。どうか、お元気でいてください」

 毎晩思い出すこの場面を、僕は最期の時にも思い出すのだろうか。

 ◇◇

 第七小隊に所属する僕は、自身が当日機乗する予定の陸軍四式戦闘機のそばに上官である憲兵曹長の立ち姿を見た。

「斎藤さ……」

 思わず、気軽に声を掛けそうになった。厳しい叱責が飛んでくるかと身構えたが、彼は僕を一瞥してすぐに立ち去った。その背中はとても言い切れぬ感情を背負っているように見え、僕に乾いた唇を噛みしめさせた。悔しい思いは皆同じなのだ。

 お国のためだと、贅沢は敵だと、とにかく敵を倒せと、そればかりを聞かされ、八年間が過ぎた。偉い政府関係者も軍の上層部も、最近ではだんまりだ。ただ一つ下された命令、それは「体当たり攻撃をしろ」だった。

 コンコン、と扉を軽く叩く。

「第七小隊二等兵、芹沢英男、参りました」

 「入れ」との言葉を確認し、僕は扉を開け、室内へと入る。そこには立派な椅子に身を預けた憲兵曹長がいた。

「ご苦労……と言いたいところだが、第七小隊ではなく、神風特別攻撃隊という名称を使うべきなのかもしれないな」

 ふっと笑う口元に、嘲りの感情が見てとれる。

「他の二等兵たちはどうしている?」

「はっ、皆、明日に備えて心頭滅却を図るべく……」

「ははっ、心頭滅却、か。そりゃいい」

 ひとしきり乾いた笑いを上げ、斎藤曹長は腹をさする。顔はまだ笑んでいる。笑んではいるが、その両肩は落ちている。

「命令だからと、敵とはいえ命を奪い、家族を置いたまま幾年も帰らず、たまに送る手紙にも大したことは書かず……その結果が、このざまだ」

「曹長、それ、は……」

「若い命をかばうこともできていない。いっそ、私の命と引き換えに何もかもを終わらせてくれと、最近ではそんなことばかりを考えるよ」

 斎藤曹長が浮かべる嘲笑が、深くなった。

「だが私一人が命を差し出したところで、何も……何にも、ならないんだ。わかるか、この虚しさが。きみに……まだ若い、きみらを……、俺は……!」

「はっ……、しかし、女子供は戦闘には参加いたしません。若い命は、これからもお国のために生まれてくることでしょう」

「……そうだな、すまなかった。伝えておいてくれ、明日は午前七時集合だ。天候は、気象部予報班によると晴れるらしい」

「はっ、かしこまりました」

「以上だ」

「は、では、失礼いたします」

 回れ右をして扉を出ると、一礼しパタンと閉める。もう慣れた動作だ。

『おまえは落ち着いているな。もともとの性分か?』

 そんな問いを掛けられたこともあったな、などと、学校へ通っていた頃のことが無性に懐かしく思い出された。

 ◇◇

 出立の時は来た。午前七時に集められた僕らは上官の命令に従うべく、ぴしりと姿勢を正し、身じろぎ一つせず斎藤曹長を目で追っている。

「貴様らの活躍で、この大日本帝国はきっと敵国に勝つ。貴様らはそれを信じるだけだ」

 昨日とは打って変わって、厳しい面持ちで彼は僕らを睨みつける。軍靴に付着する砂埃、鮮やかな色などどこにもない濃緑色の軍服を着た兵士たち。唯一太陽光にきらめいているのは、戦闘機の金属部分のみだ。こちらを攻撃したいのかとも思えるくらい眩しいそれは、僕の目を容赦なく刺す。

 そこに、一枚の桜の花びらがひらひらと舞い落ちた。

 やがて訓練どおりの行動が始まり、第七小隊――もとい、神風特別攻撃隊の面々がそれぞれ戦闘機に乗り込んでいく。僕も皆と同じように、硬い座席に乗り込んだ。

「さあ、行こう」

 明るく独り言をつぶやくと同時に、大きな風切り音を立てて先頭の機が飛び立った。補充された燃料は半分以下だと聞いている。片道しか必要ないからだ。それでいい、それでいいのだ。きみを遺して逝く僕にとって、きみの生きるこの国に負担をかけることは本意ではない。

 実は結ばれていない。わかっている。僕は何の実も結ばずに逝くことになる。敵国になど勝てるわけがない。皆、わかっているのだ。言わないだけで。

 ただ、きみの笑顔を見たいと乞い願う。熱望、切望と言ってもいい。あの透明な強さ、清らかさ、頬を飾る薄紅色、意志を宿した目、それを僕に向けてくれるという安心感と優越感――

「来たぞ!」

 誰かが叫んだ声が、風や原動機の音でかき消されることなく、僕の耳に届く。まだ、生きている。僕はまだ生きていた。

『ありがとう。どうか、お元気でいてください』

 僕の言葉に、きみはこくりと小さくうなずいた。

 誰かが誰かを思っている。斎藤曹長は、家族を、そして部下を思う優しい人だ。だが戦争が彼を変えた。厳格であれと。

 僕はきみを思う。人々の思いが連なり、国はできていく。そんなことを死の間際に思う。

 きみは、泣かずに僕を褒めてください。

 笑っていて、ください。

 清らかに。

 きみの、薄紅色の頬を、僕は夢に――

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