ポ・コルペ ポコ・ポ・ルペ ー王の舞ー
重たい鎖を引き摺りながら、ひとりの男が、血だらけの足先で舞台を踏む。ここまで男を連れてきた王の手下により、足に嵌められていた鎖が外された。男は赤黒く変色した足首には目もくれず、観客席の中央に陣取り、自分を見つめるこの国の王を見返した。
最後に会ったのは、いつだったか。男の記憶に残っているのは、あの晴れた日の庭園……。
男はゆっくりとまぶたを閉じる。
ある冬の日、シイマは隣国アイヴェンから、ここキテパに連れてこられた。
アイヴェンの王はキテパとの戦争に負け、全土がキテパの領地となった。シイマはアイヴェン王の子ではなかったが、伝統芸の継子として、城で育った。
キテパはアイヴェンからやってきたシイマを丁重に扱った。王宮の一室を与え、キテパの基礎教育を施した。
ある晴れた日のこと。シイマは庭園で、キテパ第二王子のコールと会うことになった。コール王子がシイマの芸を見たがっているのだという。
「踊ってくれ」
挨拶を終えるなり、コールは簡潔に要求した。
コールの従者が、シイマに近づいて、槍(コルぺ)を手渡した。
コルぺとはアイヴ語(アイヴェンの言葉)で槍を意味する。ポ・コルペはアイヴェン王家の誇る伝統芸であり、この勝敗で代々の国王を決めてきた歴史がある。アイヴェンが勝利していれば、ポ・コルペ師範となったシイマが未来の王子たちに踊りを指導していただろう。
槍を受け取り、シイマは苦い笑みを口の端に浮かべる。
いいよ。見せてやる。アイヴェンは負けたのだから。キテパの王子様のご命令とあらば、いくらだって踊ってやろう。
シイマは槍を振りかざし、力強く地を蹴りあげて、踊った。
宙を切り裂き、踏みつけ、風を操る。威風堂々としたその動きを、王子も従者も食い入るように見ていた。
どうだ。どうだ。すごいだろう。これがアイヴェンだ!
思わず笑い声がこぼれそうになる。シイマは両親を流行病で失ったため、故郷にも家族はいない。槍を持って踊ること、それだけがシイマの生きる術だった。母から受け継いだ振り付けと、父から教わった槍の技術。それがなければ、王家ポ・コルペ師範サザ・ヒーウィの目に留まることもなく、山奥で飢えて死んでいた。
これは俺たちの誇りだ。土地を奪われても、言葉を失っても、この踊りだけは、誰にも渡さない。
どれだけ長く踊ったか、シイマにも分からなかった。傾いた陽射しが強く、シイマの背に刺さる。
コール王子は泣いていた。その瞳は松明の炎のようにあかあかとして、こぼれ落ちる涙は滝のように大粒だった。シイマは思わず動きを止めた。
「シイマ、きみの踊りは、まるで……春の息吹、夏の夜空、秋の山々、冬の嵐だ。どれだけ踊り続けてきたのか……。きみがずっと、ずっと、踊っていられるように……私は……。誰にも、踊りの邪魔は、させない」
コールの目から最後の涙が一粒、流れ落ちた。
彼は誓ったのだ。踊りの邪魔は、させない。そう、言った。
アイヴェンの民が反乱を起こし、キテパはアイヴェンの音楽や踊りを禁止した。歌ったり、踊ったりすれば、たちまち牢屋にぶち込まれて、手足をずたずたに引き裂かれる。命をかけて、アイヴェンの民は踊り続けた。血の染みこんだ地面を踏みしめて、汗と涙を撒き散らして、大勢が歌い、踊りながら、死んでいった。
シイマも絶対に踊ることをやめなかった。王宮内では王子の保護下にあるということで、最初は罰を受けなかった。三度目の厳重注意の後、ついにシイマも牢屋に押し込まれた。
夜遅く、従者をひとりだけ連れて、コール王子が訪れた。
シイマは王子には目を向けず、壁を睨みつけている。
「こんな汚いところに、何のご用でしょうか」
「きみを助けたいと思っている。きみのように優れた者は……百年、いや千年にひとりかもしれない。こんなところで死なせるわけにはいかない」
「ははっ、踊りが上手いと命を救ってくれるのか? 馬鹿馬鹿しい。俺よりも賢いやつ、強いやつ、優しいやつ、若いやつ、全員殺してきたくせに……」
「私は第二王子だ。父や兄ほど強い権力を持っていない。全員を助けることはできないんだ。きみをこっそり、逃す。それくらいなら、できる」
「誰にも踊りの邪魔はさせないって、言っただろうが」
「言った。だから、きみがこの先も生きて、踊れるように、逃げてほしいんだ」
「俺は好きに踊る。もうおまえの指図は受けない。俺の手足をもいでみろよ。だるまになったって踊ってやる! 失せやがれ、この、嘘吐き! 無能な王子め!」
「そうか……わかったよ。邪魔はしない。好きに踊り狂ってくれ」
コール王子は静かにそう言い残し、従者とともに、闇の中へ溶けるように消えた。
シイマはそれから何年もの間、牢の中で踊り続けた。
爪が割れ、皮膚が破れ、泥まみれになった足で、踊る。
踊る。
踊る。
ただ、ひたすらに。
それだけが生きる全て。
踊ること、ただそれだけで、シイマは人間のままでいられた。
踊らなければ、狂っていただろう。
いや、もう狂っているのかもしれない。
狂ったって構わない。自分が誰なのか、それを忘れなければ。
親も、友も、故郷も、仕事も、自由も、何も持っていないけれど、踊ることさえできれば、自分のままでいられるのだ。
牢の扉が開いた。顔を隠した男に連れられて、王宮の端にある、古い建物に連れて行かれた。
血だらけの両足で舞台に立つ。すっかり大人になったコール王子、否、コール国王が、シイマを見つめる。
「父と兄が死に、やっと私の番になった」
「よく言う。おまえが殺したんだろう」
「……そんな証拠は残していない」
含みのある言い方である。はは、思わず笑みが溢れた。
「やっぱり、おまえがやったんだ」
「約束したからね」
国王となったコールの目に、かつての炎のような光が蘇る。
「誰にも、きみの踊りを、邪魔はさせない」
体の奥深くにある、重たく、冷たい鉄の塊が、熱くなる。足の親指にグッと力を入れ、シイマは踊り出す。観客席から、コールが槍を投げ入れる。踊りながらそれを掴み、振り回す。
コールは懐に手を入れ、拳銃を取り出した。
「きみは、知っていたのか? 自分の立場を」
嵐のように踊るシイマに、銃口を向ける。
「きみが、アイヴェン王の妹の子だと……公表されなければ」
コールの手は震えていた。深く息を吐く。手の震えが止まる。
シイマの母はアイヴェンの王女だった。槍の名手であった護衛兵と駆け落ちして、王家から追放された。両親が死んだ時、シイマは財産も食べるものも持っていなかった。
母親は死ぬ間際、こう言った。
「お城へ行き、サザ・ヒーウィという人に、おまえの踊りを見せなさい。きっと助けてもらえる」
遺言に従って、シイマはアイヴェンの城に居場所を手に入れた。
けれども、アイヴェンはキテパとの戦争に敗れ、国王も王子も王女も殺されてしまった。アイヴェン王の血は絶えた、ほとんどの民がそう思ったことだろう。
シイマは自分の立場を明かすことはしなかった。そんなことをすれば、すぐに殺されてしまうと理解していた。あくまで自分は、サザに選ばれたポ・コルぺの継承者にすぎない……。
先代のキテパ王は、アイヴェン王を討ち取ったニ年後に死没。第一王子が後を継いだが、アイヴェンでの独立運動が高まり、複数の反乱が勃発。コール派によって第一王子は事故を装って暗殺された。
サザ・ヒーウィはこの時を待っていたのだ。彼はシイマが、王家の生き残りだと知っていた。その事実が公にされた今、アイヴェンの民は一致団結して立ち上がり、大きな波を引き起こしていた。
「シイマを、アイヴェンの国王に!」
すぐにシイマを殺さなければ、アイヴェンの民の勢いは止まらない。
「きみの言ったとおり、私は無能で、こんな道しか選べないのだ」
コールが引き金に指をかけた。
シイマは踊りながらコールのもとへと距離を詰め、強靭な両脚をバネのように折り曲げ、跳ね上がった。コールの両目に、そのしなやかな肢体がうつりこむ。
コールの指が引き金を引く。間の抜けた発砲音が響き渡る。銃弾は宙を通り過ぎて床を抉った。
シイマは槍を持つ腕を限界いっぱいまで引いている。
「俺を見ろよ」
捻りを加えながら全身で槍を押し出し、投擲する。
槍がコールの胸に刺さる。
深く埋まっていく。
貫く。
コールは血を吐いて倒れたが、その目はキラキラと喜びに輝いていた。シイマは解っていた。コールは殺されるために、この場を用意したのだ。
コールの胸から槍を引き抜き、シイマは片隅でじっとしている、顔を隠した男を見た。
「死んだ。俺が殺した」
顔にかかっている布を外し、コールに長年付き添ってきた従者が、一礼する。
「裏手の門にて、お待ちです」
従者の案内で城の裏手に行くと、サザ・ヒーウィが待っていた。
「師匠、俺は……」
サザ・ヒーウィは手をあげ、シイマの言葉を制する。
「ポ・コルぺは」
「ポコ・ポ・ルペ(貫いたよ)」
「ならばよし。行きましょう、アイヴェン王」
新たな王が、暁の闇を走っていく。