投票のパラドックス
理に適っているようで適っていないが、理に適っている。
多数決
仮にA、B、Cがいたとして、そこに10票の投票権があったとする、そうして投票の結果、Aに4票、Bに3票、Cに3票となった場合、一見して数値的にAが最もらしく見えるが、ここでさらに追加で不人気投票を行ったとする。
その結果、Aに6票、Bに4票、Cに0票となった場合は、一番人気だった筈のAは一番不人気という結果となり、寧ろ票という数値に置き換えれば、人気投票では4票、不人気投票では6票となり、数的に見てもおかしく、最も良く無いものが良いという矛盾が生まれてしまう。
Aに興味が無いBとCはAに不人気投票の際にAに投票したから、Bの3票、Cの3票がAに移った訳だ、そうしてAは不人気投票で一番の票を得てしまう、そうしてAはライバルであるBに対して投票する為にAの4票がBに流れることになる。
投票を全てに行えるなら
では票を1票ずつ何人でも投票すれば良いと考えればどうか。
投票者がA、B、Cに対してその対象に1票を何票でも投票できるシステム。例えばAとBに1票ずつ、あるいはAとBとCに一票ずつ、あるいはAに対してだけ1票、といった具合に気になっている対象に対して票を入れることができるというもの。
ここで仮に従来通り1票ずつ多数決のような形でAに6票、Bに0票、Cに4票となっていた場合、Aの6票の者達は複数に投票できるならライバルであるCには投票しないとしてBに投票する。Cの4票の者はAには投票しないがBに投票する可能性がある、よってA6票、B10票、C4票となって一番不人気だった者が1位となり、この割合になる可能性がある。
またしても一番不人気な者が一番支持されてしまうという結果になってしまった。
順位点投票
一見して良さそうに感じるこの投票方法も平等にならず、パラドックスが発生する可能性があることから皆が望むような結果にならない。
AとBとCに対して投票が均等に入った場合に必ずパラドックスが発生する。
まずAの支持者がAに3点を入れる、次にBの支持者がBに3点を入れる、次にCの支持者がCに3点を入れる。
この時点でA3点、B3点、C3点。
AはライバルであるCを嫌っているからBに2点、CはライバルであるAを嫌っているからBに2点、そうしてBの支持者がどちらでも良いとしてAに2点入れたとする。
ここではA5点、B7点、C3点となる。
次にAはライバルであるCを嫌っているからCに1点、CはライバルであるAを嫌っているからAに1点、BはどちらでもいいからとCに1点を入れた。
A6点、B7点、C5点。
こうしてBが一番人気、Aが二番人気、Cが最下位となった。
これで平等な票となったように見えるが更にこれを同様に均等に投票を続けるとどうなるか。
A支持者はCに1点、C支持者はAに1点、B支持者はAに1~2点あるいはCに1~2点を均等に投票する、BはAもCもどちらもライバルであるから均等になる。
つまりは次の投票ではB支持者はBに3点、Cに対して2点を入れてAに1点を入れることになる。A支持者はAに3点Bに2点Cに1点、C支持者も同様にCに3点Bに2点Aに1点と票を入れる。
すると以下のようになる。
これはBの投票によってAが2着になったりCが2着になったりAとCが同率となることを意味する。
勝ち抜き戦投票
例えば投票出来る権利のある者が全体で100人いたとして、まずAとBで投票を行った場合に以下のような結果となったとする。
A51票
B49票
こうしてAが勝利したとして続いてCと対決することになるが、Bに投票した者は諦めて次回の投票に参加しない可能性がある、そうなると残った全体の投票数は51票となる。
そうしてAとCが対決すると以下のようになった。
A25票
C26票
勝ち抜き戦投票によってCが当選。
この時、Cの支持者は26名いてAにも多少支持していたが、数値だけを見ると前回の投票ではAを支持していたとなりAが51票だったのに、Cの支持者は実質26名しか存在しないにも関わらず、Cが最も支持されているという結果となってしまう。
しかし実際はBの支持者は49名いる、Bが一番人気であるにも関わらずBが最も不人気であるという矛盾が発生する。
元を辿ればAが最も数値として大きい筈だがそうもならない。
更にいえばそのBの支持者の中にはAに対して多少支持していた者が存在していた場合に、Aの支持者が実質25名なのにBの支持者がAに対して多少の支持者が+2名でもいれば一位であったCが最下位となるという結果にもなってしまう。
Cが当選した時、数値上ではこうなっている。
1対1での投票というのは投票をする手間もあって、何度も投票を行うからこそ面倒であるとなりこういった偏りを持つ要因をつくってしまう。
かといって投票を義務付けて参加しない者には違反として罰金などの刑罰を適用させたとしても、諦めた人間の行動はときに理に適っていない行動を取ることも考えられる。
それは私は俺はBを応援していたのだから"Aに対して敗北感を味わった"として"嫌がらせ"と称してまったく支持していないCに投票する可能性があるということ。
総当たり投票
勝ち抜き戦投票と同様に投票出来る権利のある者が全体で100人いたとして、まずAとBで投票を行った場合に以下のような結果となったとする。
A51票
B49票
勝ち抜き戦投票と同様にAが勝利したとして続いてCと対決することになるが、やはりここでもBに投票した者は諦めて次回の投票に参加しない可能性がある、つまり残った全体の投票数は51票となる。
そうしてAとCが対決すると以下のようになった。
A25票
C26票
こうしてAがまた脱落する、といった具合に投票する率が下がることで公平になりずらいことは同様に起こりえるだろう。
ここでその反省点を生かして中間発表を行ったとする、その数値を公表する訳だがその公表する時期をいつ行うかによって人の心理は変化する。
初めの段階から公表するとすれば拮抗しているとしてBはAの足を引っ張るようになる、そうなれば本来公表しなかった場合であった以下の数値、
A25票
C26票
この数値が激変する。
BはAに対して敗北したので嫌がらせとしてCに投票する、そうなると次のような数値となる。
A25票
C75票
こうなる訳だが、この中に愉快犯が存在したとする。
Aは嫌いでBを支持していたがどうでも良いとしてAに投票する、これが満場一致したとすればこうなる。
A74票
C26票
ここまで偏らないにしても、その愉快犯によって僅差でAが勝った場合、つまり以下のようになった場合、
A51票
C49票
といった数値となるが、BはすでにAに負けているのだからAに数値として敵う訳も無く、Aを嫌っているBによってCが足を引っ張られるという事態が発生しAが勝者となる。
勿論、逆のパターンもあるのだから、
A49票
C51票
こうなることもあるだろう。
このようにそのどれもが正確性という観点から考えて曖昧さの回避はできないとされている。現在では全ての投票方法を使用して正確性を上げる方法を取っている国もある。しかし、その方法も全てにおいて公平とはいい難く、経済学者ケネス・アローによって三者以上の投票は数学的に満場一致でしか成立しないとされた。
満場一致のパラッドクス
印象の自動操作。
現状Aの印象は最悪だとして、そうなれば自ずと満場一致でAが不要として吊るし上げられ投票率が下がる訳だが、ではBとCが不正を行った場合にその不正が軽犯罪にも満たないものであったとして、Aは初めの政策の内容が最悪でその殆どが過去に行った政策をなぞるようなどうでも良い政策、つまりはこれから国が変わることも無く悪化するしかない政策であったとしてもAが勝者として残ることがありえる。
このときBが初めの段階でかなり良い政策だった場合、そのどうでも良い不祥事が無ければそのBによって国が豊になる可能性があることから、この満場一致は自身の首を絞めているのと同義となってしまう。
人には偏見というものがある、その体調、その経験、その体験、その印象、この思い込みは数値を生み、その数値に支配されて印象が自動で操作される。
満場一致の愚者
満場一致は余程の例外が無い限り、事実上明らかな選択の場合のみ成立するとされるがどうか。
リンゴが1個とオレンジが3個あって、リンゴはどれかと聞かれれば満場一致でリンゴとなるし疑いようもないが、極論であるとして、回答者全員の知能が相当に低くて、全員がオレンジを指差してリンゴとする状況も否定できない。一見妙だがそういう状況になることもあり、回答者もそうだが質問者の知能も影響し、その質問者もその回答を『これがオレンジだ』としてリンゴを提示してしまうこともある。
これは支配者がそうしむけることもできる、よって知能の差は不利益にもなる。
そこに不正が入るかもしれない、リンゴを見せてこれがオレンジであると騙しおおせたなら支配者の思う壺だ。電光掲示板や投票箱、その投票紙、あるいは文字に対して細工されればどうしようもない。
国民によって決定された支配者が突如戦争を始めるかもしれない。
その戦争は理に適っているかもしれないが国民がそれを望むとも限らず、支配者がそこに誘導して民を信じ込ませることも出来てしまう。これは知能で劣る側はそこに自ら飛び込む事もあるということ、知能が高いことで民との知能の差によって望んでいない結果となることもあるということ、まして勝手に自滅することもあるということ。
このように投票というシステムというのは何処かに矛盾が発生することもあり、こちらを立たせてもあちらが立たず、圧倒的な不人気な者が1位を獲得したり、人気であった筈の者が一番の不人気になることもあり、こと投票というのは数値的に見ても印象で見ても必ず公平さを生むものと断言できない。
もっといえば正しいとされているものが望むものとも限らない。
投票を公平にするには運に頼ることになる、そこに公平さはあっても必勝でもなければ理に適っても無い、かといって公平に見える投票もまた危うい。
コイントス
では運否天賦、つまりコイントスのようなものに頼ってはどうか。
ある意味では平等だが、例えばとんでもない悪行ばかりする者も同等に当選するというものでもあるし、かといって最善の選択にもなり得る。無作為に銃を撃つようなもので、生き残ったなら良し、そうでないなら負け、しかしこれは偏りが発生する可能性もあり、平等であって正解じゃない。
話題性で投票する理由
ここまで思考すればわかるが、投票は平等ではないし、必ず望むようにはいかないのだから、ある意味では話題性を持っている人に期待するのはあながち間違いでないとわかる。
話題性を持っているということは数値を持った勝者であるということからも、その信頼もあれば責任も入ると考えることも出来る。
ここに書いたパラドックスの話を統合して考えれば少なくとも投票に向かわないというのは危ういと理解出来るでしょう。
これは我々の選択というよりも慣性で働くもの。
投票と聞けば平等と感じるが理で考えてもそうでもなく、更にいえばそこにはいかがわしい取り引きがあったり、忖度があったりするもので、金銭が必要でもあることからその財団が絡んでいたり、その財団に宗教が絡んでいたりしてその都合から選ばれたりする訳だ。
裏を返せば誰にだって有り得る話でもある、一見健全そうに見えるその者もこちらからすれば本当のところを知れないし、そもそもが政治活動をどのように行ってくれるかというのもその短い期間のアピールでは殆どわからない、更にいえば健全であるが故に愚策を行い続ける可能性だってある。
それはひょっとするとある意味ではコイントスと変わりないのかもしれない。
しかし、そこには必ず慣性が生じる、行動はその全体の勢いがつく、そのすぐ先に対してのアプローチとして弱く感じても、その更に先に対しての慣性は働くのだから投票へは向かった方が良い。
興味がなければ無いほどに良い、その行動はあらゆる関心が全体を通して動き始めるから、現代においてここまであらゆるものに対して不信感があるのも全体の流れ、慣性からそうなっている。その慣性の働きの強さはもはや皆が体験しているでしょう。体験して理解している筈なのに行動出来ないのは理屈としてもおかしいし、感情というか悩みというその要素で捉えて考えてもおかしい話だ。
その行動があらゆる作用を引き起こすのだから、目の前のことだけに捉われずに、躊躇せず投票へは向かった方が良いでしょう。