わからない事は語る必要がない
結局のところ、人がわかった気になっているのはその者がわからない事はわからないとする事に対しての羞恥心、知らない事を悟られまいとしながらそれを知っているとする性的アピールに過ぎない。
哲学は偏見のコレクション
例えば「自殺とは」といったテーマで哲学的に語るとすると、そもそもがその話を曲解していたりややこしく語っているだけなのが殆どで、本来そこに対して哲学というアプローチは必要無く、哲学することに意味があるという理解が無いとわからないことを語ってしまう、それはその知識や考えに対しての他者との比較を見せたいという欲求に過ぎない。
その考えが素晴らしいというにはそれはどんな切り口であっても偏見の一種だ、単純に面白い話というのはその偏見が入っているからこそなのであって、その答えが正しいというのもそれは偏見の中にある的を得ているが一見して面白みがあるという要素で思考するというものに入っていることが重要なのであって、大体が「これだ」と決めつけた瞬間から間違っている。
考える過程に価値を置き、解はおおよそ平凡なのだからそこに価値を見出すのはおかしい話になる。
金銭的に困れば何が解になるか、それは金銭を貯める事、精神的に疲弊しているなら何が解になるか、それは精神的に安定させる事、といったように大体がその答えは平凡でだからといって簡単じゃないのだからこそ、その考える過程の価値が上がる、更にはその解そのものの切り口よりもその過程の偏見によって面白みが増す、これを案外理解できない。
哲学はする事に価値があるのであってその答えはおまけのようなもの。
パラドックス
こちらを立たせるとあちらが成立しない、あるいはどちらも成立する、あるいはどちらも成立しない、あるいはその両方、その問題にぶつかった時には必ず偏見が必要になっている、それはどちらも悪であり善である、どちらも同じ意味なら必ず偏見を持って偏らせる事に入るから、結果として誰の為にという意識なのか、自身の為にという意識なのかによってその都合や偏見から展開し、その内容から納得出来たりする。
そもそもが他者の為と思いながらもその実、自身の為であることが殆どだ。
嫌えばその者の話はどれだけ正しくとも無駄になるように、その論者を気に入ればそれはどれだけ不義で愚かな発言であろうとも正しいと理解されるように、話というのはそういう根本的な部分が基礎にあるという理解も必要になる。
その偉人達もその哲学者達もその事が楽しいと感じているからこそのめり込んでいて、そうして通常そのような趣きを持たないのが多数だからこそ新しい切り口をその時代を超える発見のように思考が出来た、こう考える方が自然なんだ。
今や調べれば大体わかる。
必要なのは論理的思考の積み重ねだけではなく、論理的思考を持った上で発想の良さや面白さが求められる、ASIやAGIなど知能の高さを持つAIがこれから開発されていくと仮定すれば自ずとそうなる、それは創作活動に近く、哲学をすれば良いというよりも小説や漫画、ゲームの開発などそういった創作に対する要素に向けての思考ゲームに近い、もはやただ誰かの考えをなぞるようにして思考したところで大体はもうあらゆる時代の歴史に揃っている。
わからないならわからないで良い、無理してわかったふりをするよりは良いし、変に自身の都合で曲解してしまってその思考が面白みもなく変になるぐらいならそもそもがその''悩み遊び"が自分に合っていない。楽しいのなら問題ないが、その考えを押し付けたりする要素にもなりかねないし、人は大体が恥を嫌うからその指摘に攻撃的になったりもする。
人はこれだと思った瞬間から間違っている。