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アンパンマンとシンギュラリティの次の世代

 今後世界がどうなっていくか、アンパンマンで例えながら弁証法を使って考察してみる。


保守側の暴力とリベラル側の暴力


 暴力というのは悪であるとして、ではバイキンマンに対するアンパンチは善悪のどちらか、人というのは正義執行という大義名分から人を殺すこともある。

 この治安を守りたいから正義執行として人を殺す訳だが、アンパンマンの正義は所謂保守側であるという理解になる。

 バイキンマンはそれに対して抗うリベラル側であり、その反攻を許さないとしているのがアンパンマン側である。

意見の相違


 争いを許さないというのは意見の相違で生まれる、アンパンマンはそれに対して暴力で解決する謂わば独裁者的ポジションであり、暴力や悪を許さないとしながらその割には暴力で解決しようとする。

 その独裁者を誕生させたのがジャムおじさんという保守側のトップだ。

 バイキンマンはこんな世界はおかしいとしてもっと自由が欲しいと訴えている、その意見の相違から結局争いを生んでいる。

 国民側はアンパンマンを支持していてバイキンマンの自由さに迷惑している、ではバイキンマンは悪意があるのかというと行動としてはやりたいようにやらせてくれという思想で動いていて「この社会はおかしい」として保守側に対する訴えをおこしている。

 そのバイキンマンの思想である自由主義はその自由が許されないとなれば暴れる訳で、その自由さに対してアンパンマンはバイキンマンを殴ってわからせようとしているという図式、そのアンパンマンの思う平和は現状維持によってそれが保たれているとしているが結果として互いが互いに暴力での決着となっている。

 果たしてアンパンマンの現状維持で良いとする主張は正しいのか、バイキンマンのこの社会は間違っているという主張は正しいのか。

 もし仮にアンパンマンのいう現状維持が正しいとすれば発展は無い、新しい文化も取り入れない、アンパンマン国の国内だけで全てとしましょうねという行為。

 仮にバイキンマンの主張が正しいとすれば、様々な主張が通りやすくなり、発展もしやすく、新しい文化も取り入れることになる。

サザエさん


 アンパンマンの世界はサザエさんの世界とリンクしている、どちらも保守側だ。

 どちらも新しい文化は取り入れず、サザエさん勢はネットは使わないからいつまでたっても最新の情報は手に入らないし、アンパンマン勢はいつまで経っても何一つ変わらず半世紀を過ごしている。

 そして新しい文化が入ればアンパンマンは必ず暴力で抵抗する。

暴力は正しいか


 もし仮にアンパンマンの国が国内の生産が間に合わずありとあらゆる病気が蔓延し飢饉と疫病にあふれて人口爆発を起こしどうにもならないとする。

 ここで慌てたジャムおじさんが政策を建てるがあらゆる文化との立ち切りによってあらゆる開発ができない、資源が足りない、土地も足りない。

 ではもしその手前でバイキンマンがアンパンマンを殺してバイキンマンがその国の王になっていたら、それによってバイキンマンが新しい文化を取り入れてそれを解決してくれるかもしれない。

 かといってその暴力行為が許されるのかどうか。

リベラル側の暴力


 バイキンマンがアンパンマンに勝ったことでその国がバイキンマンの政策によって新しい文化を取り入れ他国から様々な支援を受けたとする。

 そのとき他国がバイキンマンのやり過ぎた政策に対して我が国は迷惑していると主張、そうして自由主義であるバイキンマンは抗い、戦争が始まり、バイキンマンの国に核が落とされその国が滅びる可能性もある訳だ。

 こうして暴力は一応の決着はつくが、解決とはなっていないでしょう。

 暴力というのは謂わば決着をつける意味合いで留まり、結果として解決しているように振る舞う行為に近い。

 勿論それで発展することもあるでしょうが、そうであっても常に暴力で解決となると最終的な決着というか解決方法は自ずと暴力での解決になってしまう。

 それが破壊と再生なのだとして、仮にその都市がもはや資源すら残らない大打撃を受けたとすれば取り替えはきかない。

 ならば程よい暴力としたい訳だが、ならばそもそもが暴力は必要か?という問いに対して明確に答えることができない。

 かといってゆっくりと発展していては他国との差が開き自国は経済的に落ち込み、他国の支援ばかり期待しなければならず細々と縮小し、暴力肯定派がそこに侵攻、といったことにもなりかねない。

 多少の破壊と再生は欲しい訳だ、これは革命という意味だ。

 ならば暴力は肯定されるかとなるとここにパラドックスのようなものが生まれ、こちらを肯定すればあちらが否定される、多少というのは理想で各国の文化や思想も違う。

 では暴力でしか解決できないその起因が問題と捉えるとどうか、そうなると種は成すすべがなく、他の種の暴力が繁栄し今頃には人間という存在はとっくに淘汰されているでしょう。

 それは遺伝子の否定にもなるし、かといって暴力は決着にしかならず、新たな暴力の肯定にもなる、それは殴れば殴られるという意味だ。

非暴力無抵抗


 ガンジーのとったその行動は暴力に対しての抵抗だった、確かに暴力という行為そのものに対しては有効だが、暴力以外に対しての有効度の度合いが高くない。

 その行為は抗いであり、果たしてその否定が正しいのかどうか。

開発力


 暴力の否定も肯定も出来ず、その根本にある問題を解決できない、ならば新しく永久機関をつくれるシステムの構築ができる程の開発力があれば、もはやその暴力を必要としない地点にまで向かうとされているのが理想郷であるシンギュラリティの到来でしょう。

 その開発力は創作活動で生まれる、勿論それは紆余曲折あって、暴力がいけない、戦争も良くない、様々なその体験から生み出されたことによって生まれるものである。

 そうなると過去の暴力は肯定もされながら否定も同時に出来るパラドックスの解決になっている。

 ここで問題がある。

ねずみのとある実験


「ねずみの楽園実験」

・一辺が2.7メートル四方の正方形型の柵(高さ1.4メートル)に囲まれた閉鎖空間(外界との出入りは不可能)

・一辺につき4つのブロックがあり1ブロックはさらに4つの縦長ブロックに分かれる。縦長ブロックには4つの巣穴がならぶ。つまり一辺につき4x4x4で64の巣穴があり実験装置4辺で合計256の巣穴を持つ。

・1つの巣穴には15匹のネズミまで許容可能。装置全体の許容ネズミ数は15x256=3840匹。

・ひとブロックごとに専用の広場に面しているが広場はゆるい柵で仕切られておりネズミの越境は自由にできる。

・水やりエサ場は縦長ブロック毎に専用に設けられている。

・縦長ブロックは金網のトンネル状になっている。

・水やエサは無制限に与えられる。

 よく都市伝説界隈で話題にあがるこの実験、理想郷をネズミに与えたらどうなるかという実際に行われた実験だ。

 ネズミを雄と雌を均等にしてひとつの箱に入れ、そこには食料と水は確保されているという状況。

 その環境でどのようにネズミ達が振る舞うのかというもので、結果としてどうなったかというと全て死滅した。

 何度か行われたその実験は何度行っても必ず全て死滅。

 流れはこうだ。

・ねずみにおけるシンギュラリティ到達後の世界
まず初めはその場に慣れずに落ち着かない様子、そうして慣れてくれば各々が自由に生活し子供を量産していった。次に縄張り争いが始まった、これといって場に違いが無いにも関わらず、この場が良いとして争う。

そうして派閥が生まれ、床で過ごすネズミとそうでないネズミとのよくわからない格差が生まれた。

次に雄同士の交尾が始まり、無抵抗無暴力の草食系ネズミが現れだした、ちなみにこの雄同士の交尾は各動物でも自然に見られる、犬やうさぎなど飼ったことがあればそれは理解しやすいだろう。

そうして全死滅の手前にはひたすらに床で毛繕いだけをする綺麗なネズミが現れ、そこから交尾を一切せず、子孫を残さず争わず全て死滅した。

 これは非暴力無抵抗という行為だ、これによって非暴力無抵抗の否定がされてしまった。


肉体的にならざるを得ない


 結局のところそれに対して抗うには肉体的な力強さが必要となる、全滅したネズミの最後は非暴力無抵抗から発生している。

 非暴力でありながらも肉体的になる、それがこれから来るシンギュラリティの次の時代に求められるということになる。

 人ならば恐らくはその選択を取れるでしょう、その知能と開発力からそれは約束されている。

 よって弁証法から導き出されるその結論は、シンギュラリティの到来によって人は肉体的になるでしょう、となる。

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