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老害が社会問題化しているけど、20代でも「老害」になる可能性はあると思う。

・「わからないことは懇切丁寧に教えてもらえる、やってもらえるのが当然」と思っていて、横柄な態度で店員や部下に接する
・相手に少しでも気に入らないところがあると、対話をしようともせず高圧的に怒鳴りつける
・自分の経験や主観こそが「常識」であり、その「常識」に反するものは頭ごなしに否定する
・既得権益にしがみつく

……などなど、「迷惑な言動をする中高年」に辟易した経験は多くの人にあるはずだ。

このような「迷惑な言動をする中高年」のことを、世間では「老害」と呼ぶようだが、「老害」とはこのような定義で本当に良いのだろうか?

本稿では、僕の考える「老害」の定義を紹介する。

僕の考える「老害」の定義

結論からいえば、僕の考える「老害」の定義とは、

新しいことや新しい価値観を学ぶ姿勢を頑なに見せず、寛容さに欠けていること

である。



世間一般でいう「老害」のイメージとは違って、これには一見、「老害」の特徴的な要素である「老」の要素が含まれていないように思えるかもしれない。


ここで、「老」の要素について考えてみる。

問題となる「老」・「老い」の意味について

「老」・「老い」とは、多くの場合、見た目が歳をとっていることをいうと思う。

しかし、ここで問題にしたいのは、見た目や年齢(=生きてきた年数)といった、わかりやすい表面的なことではない。

なぜなら、新しい価値観を学び続け精力的に活動している人や、人間として尊敬に値する「人生の先輩」は、高齢の方の中にもたくさんいらっしゃるからだ。

身近にも、自分に優しく接してくれたおじいちゃんやおばあちゃんのような存在は誰しもいるのではないかと思う。
そんな彼らを老害呼ばわりするなど、とてもできないはずだ。

だから、年齢ばかりを「老害」の定義の柱にするのはあまり適切ではないように思える。


ここにおいて、より本質的な「老」の意味は、
「これ以上新しいことを学んだり違う価値観を受け入れたりしなくなる、成長意欲の減衰」
つまり「マインドセットが古ぼけていること」だと考える。


よって、たとえ見た目や年齢が若くとも、
自分の中の凝り固まった「常識」を変えようとしなかったり、自分と違う考えや他人に対して不寛容であったりすれば、
それは立派な「老害」だと言えるのではないだろうか。


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