「それが常識だろ!」って、それってあなたの感想ですよね?
はぁ〜〜〜〜? うっせぇわ!!!!!!!!!!!!!
って感じの「お叱り」を受けたことのある人は多いはず。
老害仕草のお手本のようなこれらの発言には、ある特徴があるように思う。
ずばり、
ろくに説明しようともせず、「常識」の一言を笠に着て、自分の都合の良いように相手を支配しようとしている、ということだ。
ところで、
「常識常識と簡単に言うけど、常識って言葉、実はそう簡単に使っていいものではないんじゃないか?」と、ふと思った。
以下では、「常識」という言葉はそう簡単には使えないのでは?ということを述べていく。
「常識」と当たり前のように言うけれど
「常識」という言葉には、適用範囲を指定する必要がある。
という言葉によく表されているけれども、
「常識」とは、「誰にとっての」「どこにおいての」といった適用範囲によって変わるものである。
例えば、
僕は、自分の部屋に帰ってきて外着のままベッドに座ることは非常識だと考えているけれども(外の「ヨゴレ」みたいなものをベッドにつけたくない)、僕の友達は案外気にしない人が多いようだ。
また、僕が住んでいる九州では、エスカレーターは左側1列に並んで乗るのが常識だが、東京に行けば、右側1列に並ぶのが常識のようである。
つまり、「誰にとっての」「どこにおいての」常識なのか、自分と相手との間で共通認識が存在していないと、ただ単に「常識」と言っても通じない。
よって、「こんなの常識だろ!」と突然言われても、相手がどういう考えを持っているかなんてそうそうわかるものではないし、
「常識」の一言を盾に、ろくな説明もなしに自分の意見の正しさを押し付けようとするのは暴力的ですらあるので、
「それって”あなたの”常識ですよね?」と言いたくなるのも無理はないんじゃないだろうか。
「常識だろ!」の一言で自分の意見を押し付けるのは、証明もなしに公式の正しさ主張するようなもの
「こんなの常識」とか「常識的に考えて」とか言うときに使われる「常識」という言葉は、「合理的に考えれば、誰でも必然的にいたる結論」と言い換えられそうだ。
これは、数学の公式とか料理のレシピのようなものと似ているのではないだろうか。
以下、数学の公式を例に述べていく。
たとえば、
三角形の面積を求めるには「底辺×高さ÷2」という公式を用いればよくて、これが「常識」のイメージだ。
ただ、いきなり「これが公式です。覚えてください」と言われても、「なんでそうなるのかわからない」となってしまうので、
「これが公式だ」と主張するためには、「証明」をしないといけない。
三角形の面積公式の証明は、ざっとこんなことをいえばいいだろう。
このような思考のプロセスを経て、公式、ひいては「常識」が導かれる。
一方、冒頭に挙げたみたいに「こんなの常識だろ!」とだけ言われても、自分と相手では「世代」「業界」「出身地域」「性格」「生育環境」「性格」……など、あらゆる背景が異なるので、
その結論にいたる思考のプロセスはなかなかわからない。
よって、「なぜそうすべきなのか」を論理的に説明できない限りは、ただの「意見の押し付け」「自分の思い通りにならないから怒っているだけ」にしか聞こえないのだ。
「常識を疑え!」ということについて
TwitterやYouTubeで、俗にいうインフルエンサーみたいな人が「常識を疑え!」と言っているのを一度は聞いたことがあるかもしれない。
たしかに「一旦、これまで当たり前だと思っていたことを改めて考えてみる」という考え方は重要だ。
ただ、「世間の常識を疑うこと」と、「世間の常識に逆張りすること」は違う。
というのも、後者は「常識」という「結論」の逆を選択することに重きを置いているが、前者は「思考のプロセスをイチから自分で辿って結論を導くこと」に重きを置いているからである。
だから、常識を疑って、自分の頭で考えてみた結果、
これまでの「常識」とは違う結論にいたることもあれば、やっぱりこれまでの「常識」が正しそうだ、という結論にいたることももちろんある。
先ほどの「三角形の面積公式」の例でもそうだが、数学の公式も、公式そのものを覚えるよりも公式の証明や導出過程の方が重要と言われるように、
結局、結論よりも「過程」が重要、という話になりそうだ。
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