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「差別なき世界」

先日のアカデミー授賞式での人種差別の話がネットで話題になってるけど、個人的には「プロ意識が低いなあ」という感じ。差別意識はあろうが無かろうがどっちでもいいけど、国内外から注目されてる場で「どういう振る舞いが求められるか」くらいは意識してなきゃいけないんじゃ?と思う。それが頭に浮かばないほど無意識なんだろうか。だとしたらハリウッド俳優にしては世間知らずだけど…。

「差別なき世界」は無理なのか、というようなことを言っている人がいたけど、私は無理だと思っている。専門家じゃないから断定は出来ないものの、文献研究を進めれば進めるほどそう思うようになった。
たとえば日本の差別として問題視されてきた部落差別は、400年以上前の江戸幕府の身分制に由来すると言われていて、それが未だに尾を引いてる。あらゆる人種差別や身分差別は政治的・宗教的要因で生み出され、法律が変わっても人々の中に根付いてる。
「ルール」としての差別は政治や宗教が発端だとしても、差別意識そのものはその前から、多くの人間の中に存在してたんじゃないかなと思う。でなければそんなルールが受け入れられ受け継がれるとは思えないし。意識的・無意識的に自分より下の存在を欲してる人って多いんじゃないかな。でもそれは動物として当然というか、自分と違う個体を排他的に見るのは人間だけじゃないしね。
だから、いかにその動物的な脳の動きを理性で制御できるかだと思う。それは人間にしかできない、人間らしい行動だと思うから。

1964年、アメリカ南部出身の白人であるジョージ・レオナードはこう発言した。

私が若い頃北部に移って黒人たちと対等の立場でつきあいを始めた頃,私は自分が,感情的にも,知的にも,黒人に対する偏見を払拭していたつもりだった。しかし…黒人と握手するたびに,私は自分の手を洗いたいという,甚だ不合理な,しかし,強烈な衝動に駆られたのであった。私はあわて,困惑し,自らを恥じた。しかし,黒人と握手をした自分の手がよごれているという感情を,どうしても禁じえなかった。これは実に馬鹿気た,キチガイじみた感情であった。というのは,私は生まれおちた瞬間から,黒人召使の腕に抱かれ,黒い手によって体を洗われ,黒い乳房から乳をもらい,黒い手の作る食事をたべて育ったのであり,彼らの黒い肌がきたないと感じたことは,ただのいっぺんたりともなかったからである。

A Southerner appeals to the North : Don’t make our mistake

私は、彼のようであっていいと思う。そりゃ初めから差別意識がない方が良いに決まってるけど、現代に生きてればどこかで差別意識や偏見は生まれ得るだろうから。必要なのは、それを言動として表出させないこと。
文明が発展すればするほど、人間の多様性は拡大し複雑化する。その中で和平を築こうとするなら、歴史を知り、多角的に人間を知ることが求められる。知らなければ、過ちは繰り返される。なので人間ひとりひとりが正しい知識を身につけて行動することが重要なんじゃないかな。まあ悪意がないことが前提だけどね。


いち若輩者の、現段階での意見はこんな感じ。理想論かもしれないけど、世界が少しでも穏やかになればいいなと思ってる。

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