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エミレーツ航空・運命の出会い・インド帝国(その3)

2021年を迎えましたね。『新年明けましておめでとうございます!』

雑務に追われた年末最後の日、でもNHK紅白、ジャニーズカウントダウン、そしてYoutube貴ちゃんねるずは仕事をしながらもしっかり観るという、古巣で鍛えられたマルチタスキングスキルを大いに発揮できた大晦日でした。

さて、前回の話の続きですが、ままの古巣であるエミレーツ航空は、多国籍な環境で、94年に入社したころは確か60数ヵ国からの出身クルーが在籍していました。その後会社の規模とともに国籍も増えていき、現在は130国籍以上はいるとか。数年前に、145ヵ国出身のお客様を乗せてギネス世界記録を達成するイベントフライトのニュースを見ましたが、働く側も乗る側も本当に多種多様で、『これぞグローバル企業』って感じです。

当時の仲間たちは、フレンドリーで気の良い連中ばかりでしたが、少々口が悪い。ブラックジョークでの応戦は日常的なものでした。例えば、EMIRATESの意味は本来は『首長国』なのですが、シニカルなクルーにかかれば『English Management , Indian Race, Arabs Takes Enormous Salary 』(マネージメントは英国人、インド人が多く働き、アラブ人は高給取り)という意味に替わり、かなり風刺の効いたブラックジョークとなります。
で、これ本当です。確かにマネージメントクラスは、イギリスやオーストラリア、カナダ出身が多かったですね。そして、すべてのアラブ人が高給取りということではないのですが、ローカル(ドバイ人)は待遇を多少他のクルーより優遇していました。CAという食べ物や飲み物を配り、ましてアルコールを提供するサービス業に積極的に就こうというローカルは多くないので、待遇面を少し良くしてインセンティブにしていたのだと思います。余談ですが、ローカルは男性は圧倒的に多く、ままの入社当時はローカルクルーは全員ボーイズでした。しばらくして、一人ドバイ人の女性がクルーとしてジョインしましたが、90年代はまだドバイの女性の社会進出に対して保守的でしたので、ままが知る限りローカルガールズほんの数名程度した。(同期もバンバンやめていったので、日本人も一時絶滅危惧種にはなりましたが。)

そして、このジョークの”Indian Race"という点を忘れてはなりません。ままが入社する20年ほど前まではドバイではインドの通貨であるルピアを使っていたくらいですから、インドからヒト・モノ・カネが流れて経済活動が回っていたのでしょう、当時のドバイの人口はほぼインド人が占めていたのではないでしょうか。

約2日かけて日本からドバイに渡航し、これから住むことになるアコモデーション(会社の寮)で、インド人2名がルームメイトだと知って『インド人ってさ、”明治キンケイインドカレー”のパッケージの印象が強いよな~』と若干馴染みはあるが、実際はよく知らない人種との共同生活を少々不安に感じたが、『ま、同じ人間やし!』と持ち前のお気楽精神で楽しむことにしました。

ドバイに到着初日、日本人の同期2人と電気街とよばれるエリアに行くとことにしました。当時の電気街は2つのエリアに分かれていまして、バールドバイ(ドバイ・クリークの西側)とディラ市街(ドバイ・クリークの北側)にネオンガチガチの電気屋街がありました。ちなみに、”クリーク”とは水路のことです。ドバイは海洋商業の街でしたので、80年代前まで、このクリークから海に出て、インド・パキスタンやアフリカと交貿をしてたようです。到着早々になぜ電気街に繰り出したかと言いますと、電圧の違いからドライヤーを持参するのを断念したため新しく買う必要があったことと、留守電話の器機が必要だったかですす。当時、携帯は『シモシモ~石黒賢?』のショルダーホンとまでは言いませんが、ザ・通信機器のデザインのものが多く、現在のような板や二つ折のものではありませんでした。あと、クルーはスタンバイという即時出動要請の自宅待機の仕事がありますので、留守番電話は必需品。メッセージの録音がなければ、リビングでルーミー達とお茶でまったりもできません。ということで、土地勘も情報も何もわかりませんが、3人寄れば怖いもになしということで、電気街に突入することにしました。

ドバイの電気街は、怪しげなネオンのサイン、ヒトであふれかえったストリート、車やトレーラーからの排気ガスで目が痛くなるような埃っぽく雑多なエリアでした。値段交渉タクシーで電気街まで行き降りた時、『ここ、まじインドなんじゃない?!』『ドバイとか言ってたけど~、私たちホントはインドに連れてこらたんじゃない!』と疑うほど。3人で額を合わせてここまでのフライトの経緯をよ~く確認したが、やはり中東アラブのドバイには間違いなさそう。これでもか!というインド人のヒトの波に動揺したが、とにかく目的があるので、それをとっとと遂行することにしました。

電気街で交渉しないのは自ら鴨ネギ宣言をしているか、ある意味マナー違反?ってことのようですので『値段交渉』は基本中の基となります。そして、大阪人同期の抜群の浪花交渉が功を奏し、粘りに粘って値段を落とし、我々のミッションはクリアー。その後、お腹もすいてきたので、通りのカレー屋台でチキンカレーに挑戦することにしました。注文するとすぐにカレーが入った皿だけ出されて、スプーンやフォークは見当たりません。手をつかって食事をとるのは『兼高薫・世界の旅』を見ていたからちょっとは認識はあったけど、インド式は当然不慣れなジャパニーズなので、違う店でフォークを借りてもらうことにしました。チキンカレーが一皿5DH(当時1DH30円計算でしたので150円ほど)という破格の値段にもビックリですが、何より味もおいしかった!そして、さらにおどろいたのが、若者インド人のケミカルウォッシュのジーンズにアイロンで前タッグを作るファッションでした。ジーンズにアイロンは百歩譲ったとしても、『ソコをプレスするのかい!』とマジ突っ込みを入れたくなるようなピッチリのセンタープレス。このスタイル流行っているようで、行き交う若者はみんなそのファッション。『いや~っ、コレだけはないわ~!!』と、そこおちなんかい!というくらい同期達に文句を吐きまくり、これからここでやっていけるのだろうか、、と不安にかきたたれたドバイ初日でした。

まだまだ続ききます。



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