関係性なしの連帯へむけて ──キュンチョメ「いちばんやわらかい場所」
ぬいぐるみになってぬいぐるみと歩く
いちばんやわらかい場所、というなんともいえないタイトルと、ホームページに載っていたコアラのぬいぐるみのビジュアルにやられてしまい、具体的な内容は分からないまま申し込んだ。運良く抽選に当たり、「子供の頃にいちばん大切にしていたぬいぐるみをお持ちください。」というメールが届いたので、実家にあるキモリ(ポケモン)のぬいぐるみを送ってもらいワークショップに持っていった。
当日は悪天候とコロナウイルスの流行の中、20人くらいの参加者が集まった。まず、キュンチョメの2人からワークショップについての簡単な説明があった。ある時からぬいぐるみを買ってはいけないという制限を自分に課していたこと、昨年ある騒動に巻き込まれた時にぬいぐるみを買ったら心が落ち着いたことなど、ぬいぐるみにまつわるエピソードが語られ、それを踏まえて、このように自分とぬいぐるみの関係を見つめ直すような作業をしてもらいます、とのことだった。
その後、それぞれの参加者は持ってきたぬいぐるみを取り出して、他の参加者とペアを組み、以下の3つの質問についてあれこれと喋りながら、集合場所である台場駅から港区立台場区民センターまでの道のりを歩いた。
1. そのぬいぐるみとの思い出
2. 今回そのぬいぐるみを発見したときのエピソード
3. 自分を束縛している(束縛してきた)ものは何か?
まず、1つめの質問については、そのぬいぐるみと出会って一目惚れした時の話や、自分だけがよさを知っている(周りの友達には人気がない)と相棒のように感じますよねという話をした。東京に住んでいる祖父母の家に遊びに行ったタイミングで親に買ってもらったので、非日常的な思い出の一つとして記憶しているという個人的な話もした。ペアを組んだ相手は、まだ幼い自分の子供がなぜかぬいぐるみのようなやわらかいものではなくて硬いものばかり好んで遊んでいるという話を不思議そうにしていた。自分がやわらかいと逆に硬いものを欲しがるんですかね、と言おうとしたところで、この質問の時間は終わった。
2つめの質問については、今回のワークショップのために親に連絡をして実家からぬいぐるみを送ってもらった時の話をした。キモリ以外のぬいぐるみの写真も送ってもらったがあまりピンとこなかったこと、黄ばんだり汚くなったりすると愛着が薄れてしまいますよねという話をした。ペアを組んだ相手のぬいぐるみは、枕として売られていて洗濯が推奨されているタイプのものだったので、きれいに保たれると普段使いできますよねという話をした。このように今回のワークショップを機にぬいぐるみと出会い直したことについてあれこれと話したのだけれど、今思えば不思議と(当然ですが)ぬいぐるみに感情移入した、ぬいぐるみ目線の話は出なかったなと。
そして、3つめの質問については、急にシリアスな話題になったなと思いつつも、(束縛というと大袈裟だけれど)しがらみみたいなものがあるとしたら自分の場合は吃りがあることですかね、そういうしがらみはずっと受け入れてきたのでそもそもしがらみに感じなくなっていますね、という話をした。ペアを組んだ相手も、すぐに思い浮かぶほどの強いしがらみを感じたことはなくて、もしあるとしても無意識に内面化してきたと思う、地味に幸せに生きてきたんですね、と言っていた。そして、タイトルにも掲げられている「やわらかい」という言葉について、諦めと安堵が混ざった感じのイメージで、自然と内省的になってしまいますね、という話をした。初めはただぬいぐるみに関するエピソードを話していたのに、「やわらかい」というイメージを経由することで、いつの間にか自分の弱い部分を話してしまったなと思った。
3つの質問について話し終えると区民センターに到着した。会場に入ると、20人分くらいの着ぐるみがズラーっと並んでいて、各々好きな着ぐるみを着てくださいと言われた。覗き穴の位置がちょうどよかったのでトラの着ぐるみを着ることにした。そして、着ぐるみを着た状態でそれぞれのぬいぐるみを持って外に出て、初めに通った道を引き返して、台場駅近くまで歩いた。着ぐるみを着るのは初めてだったので外の世界との距離感をつかむのが難しくて、他の参加者(ウサギやカッパ、パンダなど)と時々ぶつかってしまう。外の世界の音は聞こえるけれど、話すタイミングをつかむのが難しくてなかなか話すことができない。(他の参加者もそう思っていたようで、着ぐるみを被ってからは皆静かだった。)このように着ぐるみを被っただけで普段と同じように動くことができない(ためらってしまう)というのは面白い気づきだった。
台場駅近くまで群れになって歩くと、そのあとは20分の自由時間が与えられた。ショッピングモールの周りを歩いている子供たちに手を振ってみたり、東京湾に浮かぶ五輪マークを眺めたり、急に走ってみたりした。着ぐるみを着ていると、匿名性ゆえの解放感と、自分の空間に引きこもる自閉的な感じがどちらもあり、形容しがたいフワフワとした状態のまま、雨のお台場を歩き回った。
しばらく経ち、集合場所に戻るためエスカレーターに乗っているときに、ふとキモリのぬいぐるみを見たらドキッとした。それまでは着ぐるみの中にいたので、現世界から遊離しているような、自分の存在をカッコに括った状態で外の世界を覗いていたのだけれど(たしか安部公房が『箱男』の解説で「覗くと人称がなくなる」みたいな話をしていた)、自分の持ってきたぬいぐるみと目があった瞬間、急に自分までぬいぐるみにされてしまったような(魂を抜かれてしまったような)感じがした。そして「ぬいぐるみ(着ぐるみ)がぬいぐるみを見ている」という構図の主体と客体が反転し続けるような不思議な感覚になった。それまでただのかわいいぬいぐるみだと思っていたキモリが不気味に見えてくる。無表情の着ぐるみを被りながら、その内側では奇妙な感情に襲われていた。
集合場所に戻ると、リスとパンダがショッピングモールのBGMに合わせて踊っている。他の参加者も次第に集まってきて踊り出し、ゆるやかな連帯感が生まれていた。ぬいぐるみを着ているしやってみるかという、取ってつけたような欲をその場ですぐに解放している感じが面白く、静かにテンションが上がった。(ぬいぐるみの気持ちなので急にテンションを上げてはいけない気がしていた。)
最後に、再び区民センターに戻ると、ぬいぐるみたちだけの集合写真を撮った。かわいいけれど目が虚ろなぬいぐるみたちは、それぞれ異なる表情をしている。彼らは、もはや自分たちのアバターのような存在である。
ぬいぐるみと政治性
ワークショップの数日後に行われた、「芸術と政治」と題されたシンポジウムにキュンチョメの2人が登壇していた。芸術の政治化と政治の芸術化について考えるという趣旨で、他にもC&G、津田大介さん、相馬千秋さん、高山明さん、加藤翼さんが登壇した。このシンポジウムの中で、「いちばんやわらかい場所」についての話もあった。
キュンチョメの2人は今年に入ってから、デモを見るために香港に通っている。そして、何度か通ううちに、デモの最前線にぬいぐるみを持っている人たち(覆面・黒服)がいるという不思議な光景に出会う。これは、自分たちの思想に関係のある動物や色を掲げるため、あるいはそもそも小学生くらい若い年代の人たちもデモに参加しているためだと考えられるが、それにしても、いつ殺されるか分からないような現場で人はぬいぐるみのようなやわらかいものを持とうとするんだと妙に印象に残ったと言う。そして、このような状況を踏まえて、香港のようなデモでは、弱い部分をお互いに共有しているがゆえに連帯できるという強さや、個を消して何かを纏い連帯することによって初めて持ち得る力があるのではないかと思ったことが、今回のワークショップを構想するきっかけの一つになったと言う。たしかに、ワークショップの前半で質問に誘導されるように自分の弱い部分を話してしまったが、そのことによって他の参加者に気を許している感覚になり、数時間前に初めて会ったばかりの人たちと同じポーズをとったり、BGMに合わせて踊ったりすることができた。普段なら恥ずかしいと思うようなことも、この人たちと一緒ならできると思ったのだ。これもある種の連帯である。(質問の時間を振り返ると、単純にペアを組んだ人との会話による交感が連帯を強めたというよりも、自分をさらけ出したことそれ自体に意味があったと思う。)
また、このワークショップのきっかけになったデモのような政治的行動について考えた時、ジュディス・バトラーのある指摘が思い出される。バトラーは、近年のデモや占拠などにおいて、そこで叫ばれる雄弁な言葉だけではなく、その場所に集う人々の「身体」が重要であると言う[*1]。たとえ公的な場で声を上げることができず、かつてなら政治的な場で排除されてきた(全体化されることのない私的な領域を抱えた)人たちであっても、(バラバラな状態のまま)その場に集うことには政治的な意味があると言うのだ。例えば、2011年にエジプトのタハリール広場で行われたデモにおいて、抗議者たちが占拠していた場所の生活環境を維持するために交代制の作業スケジュールが組まれていたことに対して、バトラーは「平等を具体化するために闘争する連携は、性別間の平等な分業を含んでいたのである」と指摘する[*2]。ここでは、掃除をすることや休憩時間に寝ることでさえも、身体を伴った具体的な行為として平等性を体現しているという意味において政治的な意味を持ち得るし、ともに平等性を体現しているという点で(たとえバラバラな特徴や思想を持っていたとしても)連帯を強めていると言えるのだ。今回のワークショップでも、自分の弱い部分をお互いに話すだけではなく、(着ぐるみの中という私的な領域に身を置いて)弱さを抱えた存在が各々バラバラな状態のままで、ともに歩いたり同じポーズをとったり踊ったりすることが、連帯感を強めていたように思う。また、着ぐるみを着ると外の世界との距離感がつかみにくく、他の参加者とコミュニケーションを取るのが難しかったが、お互いに交流できないという前提条件を共有していたため、かえって着ぐるみに覆われた不自由な身体を動かして何かを表現しようとする他の参加者に対してシンパシーを感じることがあった。目に見えるような直接的な関係性を持てないもどかしさを抱えつつも、そのことによって連帯を感じるという不思議な体験だった。
迂回路としての「関係性なしの連帯」
ワークショップが終わってからしばらくの間、ぬいぐるみ(あるいはそれに準ずる柔らかくてかわいらしいもの)を見かけると、気になって足を止めてしまうようになった。そんな中で、クマのぬいぐるみが表紙の『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(大前粟生)という本に出会った。大学のぬいぐるみサークルに所属するセンシティブな男の子が主人公の本作では、誰しもが持っている弱さの象徴(弱さを肯定するもの)としてぬいぐるみが描かれている。
ぬいぐるみとしゃべるひとはやさしい。話を聞いてくれる相手がいるだけでいいこともある。(中略)つらいことがあったらだれかに話した方がいい。でもそのつらいことが向けられた相手は悲しんで、傷ついてしまうかもしれない。だからおれたちはぬいぐるみとしゃべろう。ぬいぐるみに楽にしてもらおう。[*3]
このように、ぬいぐるみサークルでは各々がぬいぐるみとしゃべる。そして、他人がぬいぐるみとしゃべっているのを聞いてはいけないというルールもある。ともすると、サークルである必要はないのではないかということになりそうだが、何を考えているか分からないけれど同じようなことをしている人がいるという、ただそれだけでどこか安心するのではないだろうか。ここでは、自分の弱い部分を共有しないこと(パーソナルな部分には踏み込まないこと)によって逆説的に成り立つ連帯があると思う。各々が人には言えない私的な領域を抱え込んでいることを象徴するものとしてぬいぐるみが描かれていることは、とても興味深い。
ぬいぐるみサークルのような、直接的な関係性に由来しない緩い連帯はキュンチョメのワークショップにも通じるものである。分断を抱えた社会の中で、作品を通して参加者の間に好ましい関係性を構築することでも、露悪的な関係性を強制的に取り結ばせることで分断を意識させることでもなく、比較的小さな規模で直接的な関係性に由来しない緩い連帯を築くこと。このサークルあるいは寄合所のような枠組みに心地良さを感じた。また、関係性の構築など参加者として果たさなければならない役割や成果への強い要求を感じさせなかったことも、居心地の良さを助長していると思う。
直接的な関係性に対しての迂回路として、あるいは分断されたものへの歩み寄りとして、「関係性なしの連帯」とでも言えるような緩い連帯があっても良いのではないか。これは、他者との距離感のグラデーションを肯定的に捉えて(密なコミュニケーションを強要することなく)お互いの存在を尊重し、そのことにより連帯するというような態度だと思う。いささか理想的すぎるかもしれないが、物理的に集まり密に関わり合うことだけに依存しないこれからの連帯のあり方としてこのような態度に少なからず希望を感じる。
注釈
[*1] ジュディス・バトラー,『アセンブリ』, 2018, 青土社 : p.89-130
[*2] 同上 : p.118
[*3] 大前粟生,『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』, 2020, 河出書房新社 : p.22
参考
池田剛介,「干渉性の美学へむけて」『失われたモノを求めて』, 2019, 夕書房 : p.75-88