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映像ディレクションの作法(12)/ ナレーションとは何か
「映像表現」は、時間軸を持った情報の束。
これは僕が映像表現を考える上でいつも前提にしているイメージです。
カメラで捉えた動画や静止画(=映像)、マイクが捉えた音、音楽とSE、テロップ、台詞、ナレーション、これらが同じ時間軸で同時に変化していくのが映像表現です。
これらの情報の中で、実に特権的な地位を持っているのがナレーションです。
ナレーションは、同じ音声言語として聞こえてくる、お芝居のセリフやインタビューの音声とはまったく別の次元にあります。
頼んでないのについてくる
例えばインタビューの映像で話をしている人の声が聞こえなければ放送事故かなんらかのエラー、失敗です。セリフもそうです。本体あるべきものがないので、映像として成立しません。台詞やインタビューの音声はいわば「被写体」のひとつなのです。
ところが、制作意図としては本来入っているべきナレーションの一部がなんらかの事故で消えてしまっていたとしても、いちおう不完全ながら映像情報として成立するでしょう。意味が通じない、なんか不自然、物足りないなど、演出意図としては失敗でも、明らかな「事故」とまでは言えない……視聴者としては「こういうものか」と受け止めることも可能だと思います。
インタビューの音声やセリフは、映像情報の必然として不可欠なもので「あって当たり前」なのに対し、ナレーションは、いわば「視聴者が頼んでないのに」ついてくる声、言葉、情報なのです。ナレーションは、映像に「ついているもの」ではなく、「わざわざつけるもの」であると言えます。非常に当たり前な話で恐縮なのですが、これはディレクション作法的にはとても重要な観点です。
ナレーションの正体
ナレーションの機能や性質を検討するために、とても極端な例を考えてみます。
○なんの変哲も無い商店街のロングショット(夕方)
これに何かナレーションをつけてみます。
1)ここは**駅前の××商店街。今日も買い物客で賑わっています。
2)駅裏に大型ショッピングモールが開業し、この商店街の売上は30パーセントもダウンしたといいます。
3)この商店街で一番店舗数の多いお店は何屋さんでしょう?皆さん考えてみてください。
4)商店街の賑わいが、私の存在に「ノー」を突きつけてくるかのように感じた。
5)日本は、世界の中でも最も治安の良い国のひとつだと言われています。
実際にやってみるまでも無いことですが、ナレーションでは「何でも」言えます。当然ですね。
そして、ナレーションで何を言うかで、見えている風景やモノの意味が変わったり、印象が変わったりします。さらに、本来とはまったく逆の意味をもたせることも出来ます。嘘も自由自在です。
つまり、ナレーションは視覚情報からは「独立した」存在であるということです。独立した存在で、なおかつ、視覚情報に決定的な影響を与えるものです。
よくナレーションを「天の声」と呼んだりしますが、よく言ったものだと思います。
説明である場合
ナレーション、もしくは語り、これにはいろんなあり方がありますが、最もシンプルな「説明ナレーション」について、まず考えてみます。
ある映像が流れていて、それに付随した説明をナレーションが語っている。
先の例でいうと1)や2)などの場合で、典型的な「天の声」です。この場合、ナレーションは視聴者に先行して「知っている人」「説明できる人」です。視聴者の「上」に立つ人、ともいえるでしょう。
説明ナレーションの立ち位置としては「絶対的に正しい」「視聴者より知識が先行している(あらかじめ知っている)」というのが典型的なあり方です。
そして、特徴的なのが、1)における「ここ」、2)における「この」などのように見えている映像情報に対して指示語を多用するということがあります。今見えているものを視聴者とともにナレーターもまた見ているわけです。
これは、はとバスの添乗員や、博物館の見学ツアーと同じ構図です。
ナレーターは、視聴者の隣やすぐ後ろに居ることになります。視聴者のすぐ隣にいるナレーターは、説明者であると同時に、接客もしなければなりません。視聴者が不愉快にならないよう、スムースに違和感なく説明が進行するように、あるいは、意外性を提示して興味が持続するように、気遣いをする必要があります。先の例3)では、ナレーションが隣にいる視聴者にクイズを出して興味を引き出そうと試みています。つまり説明ナレーションは接客サービスでもあるのです(もちろんそのサービスがどの程度の「濃度」であるべきかはケースバイケースですが)。
ナレーションと映像が逆転する現象
ナレーションで何かを説明している場合、視覚情報に対してナレーションを「つけていた」状態だったのに、それが逆転してしまうとういう現象もしばしば起こります。よく言う「ナレーションベースにするカット」はその典型です。先の例でいういと5)の場合がそれにあたります。
ナレーションを聞かせる事が主な目的で、その背景のようなものとして映像を使う。ナレーションの内容を補完するようなものや、少なくともナレーションと矛盾しない映像を見せながらナレーションを聞かせます。すると、ナレーションに「映像がついている」状態になります。
海洋生物の多様性を説明しているナレーションに、珊瑚礁の水中撮影素材をつける。低迷する経済活動を説明するナレーションに都会の雑踏のスローモーション素材をつける。ゆめや希望を語っているナレーションに爽やかな雲の流れの映像をつける、などなど。
このようなナレーションと映像の関係をみても、ナレーションは映像から独立して存在していることがよくわかります。
モノローグである場合
ナレーションがモノローグ(つまり台詞)である場合もあります。先の例では4)のような場合です。ナレーションがドラマの登場人物の心境を語ったり、ドキュメンタリーでも、手紙や本の朗読だったりする場合など。この場合、ナレーションは「声」しか聞こえない存在であったとしても、映像の中の被写体のような存在になります。
説明ナレーションでは、ナレーションは、映像情報に「外から」つけたものですが、モノローグは映像の「中にある」ものです。姿を見せない登場人物、それがモノローグのナレーションです。
物語にする機能
大まかにいって、ナレーションとは、そのままではやや曖昧なものになってしまいがちな「映像情報」を「物語」にする機能を持っています。映像と並走しながら、物語りとしてまとめてくれる存在がナレーションです。
ナレーションについては、まだまだ考察しなければならない事柄が、たくさんあります。
でも、この稿もちょっと長くなってきました。ひとまずまとめて、残りは別の項にゆずりたいと思います。
#今回のまとめ
・ナレーションはそのほかの情報から独立した存在
・モノローグは被写体のひとつ
・ナレーションは映像情報を物語化する