見出し画像

なぜ田舎ではヒーローズジャーニー(英雄の旅)が求められるのか

重たい雪が降る西和賀。今日はzenが感じたモヤモヤしたことを書き綴ります。

田舎を離れるか否か

自分は生まれてこの方、生まれ故郷の西和賀を一度も出て他所で暮らしたことがありません。「出たいと思ったことはないの?」と聞かれることはしばしばありますが、思い返してみると両親からの教えは「西和賀から一度他所に出ること」で、ある一定の年齢、多分高校生くらいだったと思いますが、故郷から他所へ出ることは当たり前のことで、自分もそうなるんだと思っていました。しかし、人生とは想定どおりに行かないもので(高校生くらいのときにやった「人生100年設計?」はクソくらえと思った)、その時々に起こった事象に臨機応変に対応してきたから今があるのではないかと今思いました。

地元の高校を卒業してそれを機に西和賀を離れるはずが、結局は地元の民間企業で働くことになり、今にいたっています。中学生〜高校生時代はいずれ故郷を離れてもいつかは西和賀に対して何かをやりたいと思っていたので、それが早まって、また出たくなれば出ればいいくらいの感覚で今まで過ごしてきました。

それから今日に至るまで、自分としては目の前に迫ってきた現実をどうにかして楽しくしようと奮闘してきただけで、根底にあったのはそこなんだと思います。

地域に蔓延する救世主待望論

最近、というか高校を出てからかもしれませんが、地元の人からは「西和賀で何かをやりたいなら一度他所へ出なさい」と言われることが多かった気がします。どこへいった方がいいとかどんな経験をしたほうがいいというのは全く無くて、とにかく1度西和賀から出なければならないというふうにも捉えられます。ここで2つ疑問に思うことは、「なんで周りから人の人生を指示されるんだ」ということと「じゃあ出たら人生は豊かになるのか」ということです。はっきり言わせてもらうと、もちろん生まれ故郷から出て帰ってきて果敢にチャレンジして成功に見える人生を歩んでいる人もいると思いますが、そんなことを言う人はどちらかというと今の自分の人生に納得していないのではないのかという気がしています。「自分の人生を振り返って思い通りに行かなかったから、あなたのことを思ってそう言っているんだよ」と。

これは何も、田舎の息子娘に老婆心で声をかけている親切心の裏返しだけでなく、人々の根底に「救世主待望論」が含まれているんだと思います。もう一つあるとすれば、田舎の人に限った話ではないかもしれませんが、ヒーローズジャーニー(英雄の旅)という物語を心の中で描いている人が多いのではないかと思います。

ヒーローズジャーニー(英雄の旅)とは
英雄の旅、Heroes and the Monomyth(英雄と輪廻)はジョーゼフ・キャンベルが各地の神話に登場するヒーローの物語の構造を示したものである。
構成
Calling(天命)
Commitment(旅の始まり)
Threshold(境界線)
Guardians(メンター)
Demon(悪魔)
Transformation(変容)
Complete the task(課題完了)
Return home(故郷へ帰る)
マトリックス、スター・ウォーズ、ロード・オブ・ザ・リングなどの多くの物語がこの「Heroes and the monomyth」の流れをくんでいる。

要は平凡な暮らしをおくっていた主人公が小さなきっかけを機に旅に出て、苦労や挫折を通してライバルと出会い対峙し、成長して成果を得て元の故郷へ戻るという内容です。

田舎の父母は、自分がこの物語を達成できなかったから、自分の息子娘もしくは他人の息子娘にヒーローズジャーニーを押し付けているようにも感じます。しかし、このヒーローズジャーニー通りに物事が行っても、それがそのとおり行っているかどうかは当事者が決めることであって、外野が口を出すことではないと思います。口を出し始めたらその人の物語でなくなるし、外野が思っている以上に当事者である本人はその人のヒーローズジャーニーを行っているかもしれないからです。(だいたい、自分の息子娘にヒーローズジャーニーを押し付ける親の息子娘は大抵旅から戻ってきてない)

また戻るようですが、やはりヒーローズジャーニーの裏側には救世主待望論が潜んでいて、今の現実をどうにかしてくれる人を待っているというのがある気がします。特に田舎では人の対流が少なく、空気は淀み、声のでかい人の論理だけがまかり通る世界です。旅に出る必要があったら出るだろうし、自分の人生を信じて自分だけのヒーローズジャーニーに自信を持って一歩を踏み出すことが大切な気がします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?