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月響(げっきょう)20



国立に行くのはナリタ君の亡くなった日、あの横田夫妻追い出しパーティ
以来だった。

あ・違った。

一週間くらい前、母が西国立のおそば屋さんにどうしても行くと言い張って気がすすまなかったけど車で国立を走り抜けた夜があった。

その時ちょうど生理で体調は最悪だったし、なんとなく避けてた車に
久し振りに乗ったせいもあって具合が悪くなっちゃって、親父さんが
練習してる時の腹に響くベースの不協和音の波みたいのが来ちゃって
大変だった。

せっかくのおいしいおそばも受けつけず、そば湯だけいただいて電車で
帰って来たダークな夜。

ミサキと会って話した今はだいぶ落ち着いてきたけど、あんな風に感情の波とカラダの波が同時に高ぶるような怖いカンジ、二度と起こらないコトを
祈る。


それにしてもミサキに勇気づけられるなんて……。

暗い訳じゃないけど口数が少なくて、いつもお喋りな私の聞き役になって
くれていたミサキちゃん。

しっかりしてるのは、生まれてすぐにお父さんを亡くしてて給食のおばさんをしてるお母さんを助けて家のコトとかよく手伝ってるから。

引きこもりのお兄ちゃんのコトはたまに悪口云ってたけどミサキはすごく
思いやりのある優しい子。

その上どことなく守ってあげたくなるタイプだったから、これが男子によくモテた。

まぁ男ドモは顔しか見てなかったかもしれないけど。

その整った顔がミサキの悩みの種だった。

タレントの伊東美咲に激似なのを気にしていたのだ。

私は本気で気にしているとは知らずに、顔がそっくりで下の名前が
おんなじコトをよくからかった。

ミサキが真顔で嫌がってケンカになりかけて謝って。

でもついついまた笑ってしまって。

だって、美人なコトが悩みだなんて。

「名前が一緒じゃなかったら良かったのに。
 伊東美咲はあんなにスタイル良いのに私は背も低くてまるでニセモノ
 みたいで最悪~」

というのがミサキの主張だった。

でもナリタ君と付き合い出してすぐ「マメちゃん」と呼ばれるように
なって、ミサキの中で本物の小ちゃいお豆ちゃんが育ち始めてからは
伊東美咲なんかどうでもよくなってしまったらしい。

以来ミサキは「二人合わせて豆がナル~」とかいうヘンな歌をしょっちゅう唄っていつも上機嫌だった。


ナリタ君はミサキだけじゃなく誰にでも勇気を与えてくれる、そんな人
だった。

丁寧に言葉を扱う人だった。

私はナリタ君からよく、舞子ちゃんが私の描く絵を気に入ってるって
聞かされていた。

受験とかで心がぐちゃぐちゃしてた時期、その言葉はいつも中心らへんに
しっかりと在って、私が自分を見失わないよう助けてくれた。


またオサダさんのアトリエに油絵を描きに行こう。

舞子ちゃんが憧れていた油絵。

舞子ちゃんはアクリル絵具しか使ったコトがなかった。

そして油絵を描かないままでいってしまった。

ミサキがナリタ君と一緒に歩んでるみたいに、私も舞子ちゃんの居た
空間に戻ってみよう。

そんなコトを考えながらシャカシャカ歩いていたら、もう二つ目の
セブンイレブンの前を通り過ぎていた。

時計が目にとまる。

八時半。

ミサキとは九時に駅前のベンチで待ち合わせてる。

おでこの汗をぬぐい、ちょっとだけスロウダウンする。

とたんにさっきのマー坊との電話のやりとりを思い出してしまうから
スピードを上げる。

おかげでそれから五分もしないで国立駅前に着いてしまう。

桜はやっぱりまだ咲いてないけど、どの木にも沢山のつぼみがついていた。

数日後のデビューを控え、驚くほど濃厚なフェロモンを発してる。


花がひとつも咲いていないのに、茶色の幹のまわりはピンク色の空気で
満ち満ちていた。

私には大学通りの両側で咲きほこる満開の桜と、木々の間を吹きぬける一陣の風と、花ふぶきが同時に見えた。

ピカピカの太陽の下で見る、それは特別なデジャ・ヴューだった。



次葉へ

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