軽井沢移住を決めた3つの理由
2019年の夏、東京都渋谷区から長野県軽井沢町に家族4人で移住した。コロナやリモートワークの加速のことなど、当時はもちろん想定も出来ていなかったが、この数か月、東京圏の知人から月に何本も「軽井沢移住を検討したい」という連絡が入ることもあり、1年間スタート出来ていなかったnoteをぼちぼち始めてみたいと思う。
移住してきたのはちょうど1年前。
移住を決めた背景や導線は、これから振り返っていこうと思っているが、大きく理由は3点。
①子どもの環境
4年前に長男が生まれた頃、僕らは渋谷区の代々木上原に住んでいた。閑静な住宅街で利便性も比較的高く、子育てにはいいよね、と夫婦で話し合い、分譲マンションを購入した。治安もよく、クリニックも近くに沢山あり(今となっては医療費無料とか素晴らしかった)、買い物にも不自由なく、またママ友パパ友にも恵まれ、文句のない日々であった。
しかし、子どもが動けるようになった頃だったろうか、少しずつ疑問が芽生えてきた。近所の公園に連れていっても、じっと砂遊びをするだけでまわりに興味を示さない、帰りに手を洗わせようとすると水が冷たいから嫌だという。そして見ず知らずの他人の子どもに、「お友達が遊んでいるからね」と空気を読まされる。ようやく幼稚園のプレに入園すると、そこで見たのは先生や親が必死に子どもたちを管理しようとする姿。いやいや、僕が子どもの頃はもっと自由だったよな、なんでもダメダメでリスクに蓋をしていたら感性が育たないよな、と。
自宅から徒歩5分の幼稚園入園式
偶然、そのタイミングでママ友から、軽井沢に自由進度の学校が開校するらしい、という話しを聞いた。調べてみたら、そこ以外にもイエナプランの学校も新設されたことがわかった。かねてから妻と話し合ってきた軽井沢移住は、長男の東京幼稚園入園と共に一気に現実味を帯びたのだった。
②東京というシステムからの脱却
米国大学院を卒業して帰国して以来、この20年間ずっと複数の外資系企業で働いている。今でこそ働き方なんとかと言われているけど、10年位前まではwork hard, play hardが当たり前と思っていた。なので、六本木の本社で深夜2時まで仕事して、そこから飲みに行って、また仕事に戻って、なんていう日々もあった。生まれ育った町、東京は本当に便利で楽しかった、と思っていた。しかし、1年半前、当時可愛がってもらっていた社長が46歳の若さで急逝した。それも出張先のアメリカ本社で、だ。本当に悔しかったし、今でも喪失感は消せない。同時に思ったことは、1つしかない命を守ろう、と。
東京のシステムは素晴らしい。子どもが出来てからも、住まいのことは管理人か管理会社が対応してくれるし、たいていの課題はアウトソースすれば、そこそこ解決できる。しかし、父親になった時に気づいたのは、他力で生きていけてしまうから、子どもに見せられる親の背中がないということだった。このシステムの中に居ては、自分の生きるチカラがどんどん削がれていくと痛感した。
③ライフシフトと100年時代
3年前の夏、妻にお願いして一人でNYを10日間訪問した。渡米の理由はNY留学時代の恩師に会いに行くためであった。恩師は80歳になり、バーモント州の素敵な土地に別荘を購入し、夏の間生活していたのだ(まさに軽井沢のような)。恩師はすでにリタイアしているのだが、その前後に訪問した大学院時代の同級生たちのライフシフトに、僕は愕然とした。旧交を温めながら、ゆっくりと話しを聞く中で、僕も軽井沢ならこのような生活が出来るかも、と具体的にイメージをはじめたのは、この旅が契機であった。
人生は一つの長い旅、本当にそう思う。
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