カトちゃんPayっ!
あてもなく新宿駅をうろつくと、気がつけば目の前には見知らぬファミリーマートがあった。
私の足が、おぼつかない様子で中に向かっていくのを感じる。体が自然とビタミンを求めているのだろう。
社会人二ヶ月目。
皆最初は通る道だとはいうが、やはり環境の劇的な変化は想像以上の負荷を与え、どうしても気分は落ち込んでいた。
自分にはこの仕事は向いていなかったのではないか。この会社で生き残っていくのは無理なのではないか。
ふとした瞬間に自分の弱い部分がそう悲鳴を上げるのを、理性が必死にかき消す毎日だった。
「いらっしゃいませ」
愛用しているビタミン入りゼリーをレジに置く私に、朗らかな声が向けられる。
レジ担当はそのコンビニの店長で、40代くらいのスキンヘッドの男性であった。にこやかな笑顔からは人の良さがうかがえ、荒んだ私の心に少しばかりの華やぎをもたらしてくれる。
「レジ袋はいかがなさいますか」
「いえ」
私は簡潔にそっけなく自分の意思を伝えた。
私にとってはこの店の目的はゼリーを入手することであり、それ以外に時間や労力をかけることは無駄である。申し訳ないと思いつつも、つい口調が冷たいものになってしまったと自覚する。
「かしこまりました」
それでも店長は私に笑顔を向け続けた。
コンビニの店員をはじめとした接客業は、さぞかし苦労の多い職業だと私は思う。客を丁寧にもてなすのは当たり前、時に無茶な要望も答える必要があるが、一方でリスペクトを持って接し返されることは少ない。
ミスがあれば自分の責任、常にお客さん第一で完璧に仕事をこなす必要がある。でも目に見える見返りはあまりない。
最低賃金でこれだけプレッシャーの多い仕事をしているのだから尊敬に値する。
「お支払い方法はいかがなさいますか」
「PayPayで」
「かしこまりました。PayPayですね。それではバーコードを見せてくださいね」
私は言われた通りバーコードを見せながら、彼に手元のスマートフォンを差し出した。店長は大袈裟な動きでバーコードリーダーを向けながら、こう言った。
「カトちゃんPayっ!」
私はぽかんと口を空け、文字通り店長のことを二度見した。予想外のタイミングでの言葉だったので意図を瞬時に理解することができなかったのだ。
やがて手元のスマホが甲高い声で「PayPay」と叫び出した頃、私は自然と口元が吊り上がるのを感じた。
何とくだらないジョークであることか。あまりに安直すぎて呆れ笑いが出てくるほどだ。
それを、常連客ならまだしもただゼリーを一品買いに来ただけの初対面の客にするものか。
あるいはこれをPayPayで支払った客全員にやっているのか。だとしたら尚更馬鹿馬鹿しくて面白い。
「ありがとうございました、またお越しくださいませ」
私は笑いを堪えながら店長に会釈をする。
こんなに面白い人もいたものだな、と少しばかり感心して再び灼熱のコンクリ街へと足を戻した。
ーーふと店を出て、私は気持ちが少しだけ軽くなっていることに気がついた。
もちろんジョークが下らなかったこと、店長の明るさが伝播したこともあるだろう。ユーモアは気分を前向きにする最強の特効薬だ。
でもそれだけではない。私はそこに、接客業に生きるものとしての誇りを垣間見たと思ったからである。
きっとこの店長は、店を持った最初の日からジョークを飛ばしていたわけではないと思う。きっとマニュアル通りの完璧な対応を心掛け、少しでもお客様にストレスがないように必死になって取り組んでいたはずだ。
だが、ある時ふと気がついたのだろう、完璧な接客ではストレスは無くともポジティブな印象は残らないことに。マイナスをゼロにするだけではアピールにはならないのである。
どうすればお客様にまた来てもらえるのか、他のコンビニとどう差別化するか。考えた結果、辿り着いたのがこの「カトちゃんPay」だったのだろう。実際、それによって私を笑わせ心をほぐすことに成功しているのだから、戦略は適切に功を奏していると言える。
きっといろいろなジョークをこれまで試してきたに違いないし、時にはお客さんに怪訝な顔をされたことも少なくないはずだ。それでも、自らのアイデンティティとお客さんの笑顔のため、今日も奔走し続けているのである。
だから、このくだらない「カトちゃんPay」の一言こそが、店長がここまで生き抜いてきた人生と価値観の結晶であり、お客さんと接する立場のものとしての誇りであったのだと思う。
ーー翻って私の方はどうだろう。
目の前の仕事に夢中になりすぎて、成果に一喜一憂しすぎて、ジョークを口に出す余裕すら失っていたのではないだろうか。
マネージャーの、クライアントの求める理想像になろうしすぎて、ただマニュアルを完璧にこなすだけのマシーンになっていたのではないだろうか。
私の仕事も要は接客業、ただ完璧にこなすだけではプラスにはなり得ない。そこに自分独自のユーモアのエッセンスを織りなすことによって、初めて「この人とまた働きたいな」と思ってもらえるような人間になれるのである。
私も自分なりの「カトちゃんPay」を見つけたい。いや見つけなければなるまい。
私は、ビタミンゼリーを吸いながら、店長の様子を思い出す。
きっといつか、新宿に立ち寄った時にあのファミリーマートのことが頭をよぎるのだろう。そして何かいらない物を買うために入店し、今回もいやしないかとつい首を振るのだろう。
「またお越しくださいませ」
その言葉の重みが、ずっしりと私の胸に響き渡る。
ぜひ、そうすることとしよう。
もちろんその時も、支払いはPayPayで。
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