燃ゆる鹿児島国体2023を徹底解説‼️~太陽国体からの挑戦~
さぁ、皆さん‼️
待ちに待った鹿児島国体開会式が今日行われましたね
今日は歴史的な日として、多くの皆様方が鹿児島に来てくださいました
わざわざ鹿児島国体のために、鹿児島に帰省してきた方もいたようです
そんな鹿児島国体開会式には、鹿児島にまつわるタレントさんも出演されて
天皇皇后両陛下もご出席されたという事で
しかもあの荒田の道に天皇皇后両陛下の公用車が通るというとても珍しい異様な風景も見られました
そんな国家レベルの盛大なイベントとなりました
実は、鹿児島国体は10年以上前から鹿児島県は鹿児島国文祭の次に大型プロジェクトとして力を入れていたわけなんですね
なんせ、今回
テーマソングまで作っちゃいましたからね(最後に載せております!)
この曲は3年前に発表されたのですが
それがとても良い曲なんですよ❗️
僕は高校の時にも文化祭の舞台で踊ったのですが
その後も、長崎にいる際もホームシックになった時に
この曲に勇気づけられてましたからね
それだけ鼓動が強い曲となっています
鹿児島の曲を聞いたら、ホームシックが落ち着くという謎の現象が起こってましたね
特にあの曲もそうですけど、何より「待ってるし鹿児島市」はとにかく泣きましたね(最後に載せてあります)
いやぁ、あの時は本当に切なかったねぇ
あの方の顔も見れて、このプロモーションムービーも最高でした😭👏✨
今や、やたら強気で長崎出身アピールしてるけど
正直、鹿児島のほうが大好きですねぇ
そんな話は置いといてですねww
そんな盛り上がりに盛り上がってる鹿児島国体を今回徹底解説していきます‼️
まず、解説にするにあたり
解説の中身を先に説明していきたいと思います
まず1つ目は、今回の鹿児島国体の前身とも言える「太陽国体の歴史」について解説していきたいと思います
この太陽国体が無ければ、おそらく今回の鹿児島国体も無かったかもしれない歴史的な大会だったわけですね
鹿児島市にとっても、太陽国体で街中が大きく変革されたきっかけになったわけです
つまり、今の鹿児島市街にも恐らくなってなかったであろう
大規模なイベントになったわけです
そこで、一体どんな風に変革はなされたのか?
というのもお話していきたいと思います
そして、2つ目が今回の鹿児島国体がなぜ行われたのか?
「鹿児島国体の経緯・背景」について解説していきます
我々、鹿児島県民はですね
知ってるようで知らない、県政について
という事なんですけど
意外と、ローカルニュースって細かいところまでは把握してないですよね?
やたらと全国のエンタメニュースやゴシップには敏感だけど
地元のローカルニュースには、そんなに興味を示さないという
ここでも謎の現象が起こってるわけですよねww
「自分たちが住んでる自治体のニュースだぞ‼️」ってね
だけど、興味関心が無いというね
おそらく、ここでお話する事は
大半の方は初めて知る内容ばかりかと思います
普通にニュースで報道してたけど、おそらく「あれ?、そんな事やってたの知事!?初耳〜」って言う方がほとんどだと思います
それを改めて解説していきたいと思います
そして、3つ目はそもそも、「国体とは?」という事を解説していきます
普通最初に持っていくべき内容なんですけど
敢えて、最後に持ってきました
そちらのほうが皆さんにとっても理解しやすいと思いますからね
なかなか知ってるようで「国体」の概念はご存知無い方多いのではないかと思います
「いやいや、『国民体育大会』そのまんまでしょ?」
って言う方もいらっしゃるでしょうが
それだけじゃないんですよね
他にも意味が多くあります
こちらについても、ざっくりと解説していきたいと思います
では本題に参りたいと思います‼️
第1章 太陽国体の歴史
太陽国体の招致
皆さん、まず「太陽国体」っていつ行われたかご存知でしょうか?
そうなんですよ、1972年1月~10月まで行われたんですね
自分は勿論ながら
まだ自分の親も生まれてない時ですからね
結構昔になっちゃいますけど
まぁ、年齢層を配慮して
最近という事にしときましょうかwww
まぁ、それは良いとして。
見て分かる通り、期間が長いですよね
今回の鹿児島国体では約2週間に対し
当時の国体は、約10ヶ月に渡って行われていたそうですね
それが通例だったそうです
なんせ、当時は秋季大会と冬季大会を総合でやってたんですね
今は秋季国体と冬季国体として分けていまして
今回の鹿児島国体は「秋季国体」になるわけですけど
それを太陽国体ではまとめて行われていた
だから、冬季スポーツは当時栃木県で行われていたそうですね
国体本拠地は鹿児島だけど、冬季大会は栃木県で行われ
また閉会式は鹿児島で挙行されたという事で
まぁかなりややこしい流れになってたわけですね
だからこそ、後に「秋季国体」・「冬季国体」で分けたんです
ここまで皆さん、ご存知でした?
おそらくご存知無かったかと思います
これからの内容も初めて知ることがたくさんあると思いますので是非、楽しんで呼んでください🙂‼️
では続けますが
皆さん、第一の問題として「太陽国体がなぜ行われたのか?」ですよね?
気になりません?
「あ〜、確かに〜、『太陽国体』という名前も気になるけど、なんで鹿児島なんだろう?順番かな?」
ってなるかもしれませんけど
順番じゃないんですよ
そうなんですよ
これはオリンピックとかの国際行事と同じで
「招致活動」を行った上で、当時の文部省によって念入りな審議を重ねた上で地域ブロック(北海道・東北・本州・近畿・中国・四国・九州)ごとで8都道府県が厳選されて
その地域ブロック代表候補都道府県の招致内容で
また2都道府県が厳選されて
その2都道府県の最終審査で選ばれた1都道府県が5年後の開催地として決まるわけなんです
かなり審査は厳しいようで
環境・警備・治安・民度・予算などなど
色々なところでチェックしていく訳でして
予算案も各都道府県が事前に決めて選出(審査)資料として提出するそうです
そんな厳しい審査で今回も選ばれましたし
当時も選ばれたという事なんです。
これで3つ目の話の一部をここで話してしまいましたという事でww
3つ目のネタが無くなってしまうんじゃないかという心配もあるので
「太陽国体」の話に戻しますけど
どうして、鹿児島に行われたんだろう?
という事なんですけど
先程も話しました通り、誘致でして
当時は東京オリンピックも決まったという事もあり、鹿児島県民の方々から「鹿児島も戦後復興の証として盛大なイベントを行って全国・世界にアピールしたい‼️」という事もあり
1962年から招致活動を行っていて
当時はまだ九州で国体が開催された事が無かったというので
「国体を九州初上陸させるのは我々鹿児島である‼️」と言うのでアピールしてたのですが
1965年、なんと我らの長崎がですね
九州初の国体開催地に選ばれたわけですよ
それで時の県知事、寺園氏が「よし!次は鹿児島にさせる‼️」と九州未開催県同士の会議に参加するわけでして
そこでは、全員がですね
「あの長崎が憎い!!」という事で
それぞれの知事が「あの長崎に負けない次なる開催地は我が県だ‼️」と主張し合って
結論がなかなか得られなかったんですね
その3週間後に次は文部省国体役員関係者で審議が開かれたんですね
そこで、「そういえば、九州ではなんか子供のような大乱闘が起こってるみたいで、どうしましょうか?」
というので「だけど、ワシらは対等に全国都道府県を審査した上で選ばなきゃならんのじゃ。」
言うて話は出たんですよね
多分そんな会話はしてないとは思うんですけど、出たんですよ
その後の審議で準備状況で国体開催地として九州の2番目に内定されたのが鹿児島だったわけですね。
『太陽国体』の由来
そしてさっきもありました通り、「『太陽国体』ってどうしてなったんだろう?」ってね
当時からするとね、大阪万博の「太陽の塔」が連想されるわけですよ
現在も、多くの大阪府民から恐れられてる岡本太郎さんの「太陽の塔」
これをイメージする方、多いかもしれませんけど
そうじゃないんですよ!
確かに同じ頃なので、頭ごちゃ混ぜになりますけど
違うんですよ
中身がパラレルワールドになってる「太陽の塔」じゃないんですね。
「じゃあ何?」
って言うと
実は、スローガンにあるんです
当時のスローガンが「明るく、たくましく、うるわしく」という事で
そこから朝日が直差す桜島に着想を得て
「太陽国体」となったわけなんですね
へぇー
そうなんですよ
ここにも「桜島」が出てきましたね
鹿児島といえば、何もかもに桜島を入れがちなんですよね
まぁ、「鹿児島」という県名の由来にもなってるわけですから
それだけ重要な御神体なんですよ
だから桜島の周りは神社が多いですよね
鳥居もたくさん立ってます
それは、鹿児島県を中心としてお守りしている神様が宿ってるからなんです
だから次桜島に行った時は是非とも、一礼してから上陸していただきたいと思います
この記事を読んでる方にはそうして欲しいですね
これお願いです。
桜島を出る時も、一礼してから出て欲しいと思います
鹿児島県民、そうじゃなくとも崇拝して欲しいと思います。
という話は置いといて
冒頭にも話しました通り、「太陽国体」が開催されるにあたり
大規模な鹿児島市街の再開発が行われたんですよね
鹿児島市街大規模再開発計画
その再開発がどこでなされたというと
「与次郎」、「鴨池・郡元」なんですよね
鹿児島市民の皆さんなら心当たりありません?
そう、「与次郎」の埋立工事がこの時に行われたんですよ
え〜!!
そうなんですよ
太陽国体に向けて、与次郎の大規模埋立工事が行われたんですよ
かつての与次郎というのはですね
まぁ、祖父母からよく聞いてたのは
「昔、与次郎が浜には水中レストランがあってね、その隣にはでっかいツリータワーがあったのよ。そこで若いころよくご飯食べてたわ〜」
ってね
それ聞いて、「へぇ〜、そうなんですねぇ」って懐かし話を聞かされてるみたいに頷いてたわけですけども
その後に、「今はもう、アスファルトの遊歩道になってるけど〜」言うてね
その他にも、「与次郎が浜はねぇ、よく潮干狩りでたくさんの貝が掘れたのよォ、そしてよく泳いでたわァ」
って言って色々聞いてたわけですけども
その後にも「今はもう。。。コンクリートだらけの飾りよねぇ」
言うてね
色々聞いてたわけですけども
それだけ与次郎は、港町として当時は大きく栄えたわけですよね
今も栄えてるんですけどねww
だけど当時は今や珍しい施設が多くあったわけですよ
それこそ、水中レストランとかですね
星野ツリータワーとかね
結構高いタワーだったらしいですね
色々あったんですけど
それも解体され、その他の建物も解体されて
埋め立てられたという事なんですよ
なぜそこまでしないといけなかったのか?
当時、鹿児島市海沿いはですね
国道・県道とかがめちゃくちゃ混みやすかったらしいですね
「日頃の鹿児島市民だけでも渋滞するというのに、いざ国体で全国から集まったら尚更混んでしまい、インフラが止まってしまうぞ‼️」
という事で
インフラ再整備として、天保山・与次郎を全て埋め立てて
道路を新たに作ったわけですね
だから、埋立前は現在の天保山公園は与次郎が浜の一部としての海浜だったんですよ
すぐそこが海だったわけです
今は、もうマンションだらけになってますけどね
あそこはかつて海だったんですよ
だから、今のフレスポなども海だったんですよね
だから坂本龍馬夫妻の上陸地記念銅像も立ってるわけですよ
なんでしょうね、天保山公園らへんは毎回歩くとゾッとする感覚になるのは僕だけですかね?
なんかいるんですよあそこら辺
だからあまり歩かないようにしてます
かつて、あの橋は飛び込む方が多かったらしいですね
太平洋戦争の時なんかは、あそこはね。。。
やめときます。
そんな話は置いといて
他にも与次郎はですね、我々が住んでた福岡の城南区に地形が似てるんですよ
だから鹿児島の人に「城南区ってどこ?(どんなとこ?)」って聞かれた時には
「鹿児島の与次郎みたいなとこです❗️」
って言ってるんですけど
よくよく考えたら、城南区って結構お上品な住宅街でもありまして
はい、鹿児島で言うところの「伊敷ニュータウン」なんですよね
つまり、「与次郎+伊敷ニュータウン」が城南区になるんですよね
今度からそう応えたいと思います、
それはどうでもいいんですけどww
続いて、「鴨池・郡元」なんですけど
こちらは、かつて空港とその隣に動物園と遊園地があったというのはご存知ですやね?
今考えると、めちゃくちゃカオスな立地になるんですけどね
空港の隣に動物園と遊園地
なるほどぉ
結構うるさかったでしょうねww
色んな意味で複雑な騒音したでしょうねw
隣には飛行機の爆音がして
その隣には「ウキウキ、ギャーギャー」と動物の鳴き声が聞こえて
考えるだけでめちゃくちゃカオスで頭がおかしくなりそうな環境ですよね
そういう場所が実際にあったわけですよ
それが理由かは分かりませんけども
太陽国体が決まった後に、それぞれ溝辺と平川に移設されたわけですね
正式な理由としては、「会場を新設できる場所が鴨池しか無かった」からなんですよね
その他にも候補地があったんですけど
よくよくは鴨池・郡元に競技場を新設したわけです
そのために、空港と動物園・遊園地を移設させて
その他の建物も全て解体して
多くの競技施設を建てたわけなんですね
あの市営屋内プールも太陽国体のために建てられました
よくよく考えると、それまで全然スポーツ施設が無かった事になるんですよねwww
それでよく誘致出来たなぁと思うんですけど
その後の再開発が完璧に行われたというのが
大きいですよね。
ちなみに、太陽国体後も鴨池も再開発は続いてまして
動物園跡地には色々な建物が立ち並び
その中に現在のイオン(旧ダイエー)鴨池店が建てられたわけなんです
へぇ〜
あのイオンは意外と歴史が長いんですよね
もう既に50年以上経ってますからね
というのもあり、色々な心霊現象も報告されてますけども。
その他にも鹿児島県庁が山下町から移設されました
県民交流センターはかつての旧鹿児島県庁跡地でもあります。
つまり、鹿児島市役所も近くに鹿児島県庁があったわけなんです
かつて、あそこは鶴丸城があったというのもあり明治期からは行政施設や教育施設が多く建ち並んでたんですよ
つまり、鹿児島の『霞ヶ関』だったわけです
でも、色々な都合で終戦後からはそれぞれ移設され
文化施設が建てられるようになりました。
唯一残ったのが、市役所と中央公民館となりました。
話は戻りまして
気になるのは「鴨池空港・動物園は後掛かりもなく解体されてしまったのか?」という事ですよね?
気になりません?
鴨池空港・動物園の形跡
実はですね、イオン鴨池店正面入口前に不気味な銅像が何体か立ってると思いますけど
あれは動物園の時から立てられてたのをそのまま残してるんですよね
へぇー、そうなんですよ
しかもその隣に小さな公園があると思いますけど
その古びた入口門はかつての動物園の入口門として使われていたものです
そして、そこから少し離れたところに「スカイマートニシムタ」があるかと思いますけど
あれは、鴨池空港時代にターミナルビルとして使われていたのを改築して建てられたものなんですよね
え〜‼️
だから「スカイマートニシムタ」なんですよ
オープン当初はですね、小学生でして
よく、「ここの百均は狭いねぇ」つって
当時は鹿児島に、そこしかCanDoが無かったものですから
「スカイマートニシムタ=CanDo」でイメージしてましたけども
「完全に舐めてました」と
「ごめんなさい」と
言いたいところですよね
そんなに歴史ある建物とは思いませんでしたからね
もう次からはこちらも入る前に入口で一礼してから入りたいものですよね
それだけびっくりしておりますww
かつてはですね、鴨池空港移設後も2013年まではターミナルビルだけそのまま残されて
小さな商業施設として使われていたそうでして
マニアからは「貴重な空港跡施設」として親しまれていたそうですが
建物が老巧化したという事で、改築されて
今のスカイマートニシムタになったそうです。
太陽国体の貴重な写真集
さて、話は変わって
当時の写真を振り返ります
結構ポスター作ってたらしいですね
他にも色々あるので、良かったら調べてみてください‼️
第2章 鹿児島国体の経緯・背景
鹿児島国体が開催された理由
ここでは今回の鹿児島国体がどうして開催される事になったのか?
という事なんですけど
今回の鹿児島国体というのが
鹿児島国文祭と合わせて招致活動をしていたわけなんですよ
それはなぜか?
そう、明治維新150周年という事で
その記念プロジェクトでアピールするために
鹿児島が日本の中心地である事を全国にアピールするために
伊藤元県知事を中心に誘致活動がなされたんです
2012年鹿児島県知事選挙で伊藤氏は「鹿児島国体を絶対に開催させる‼️」というので当選するわけですよ
そこから何度か委員会に参加して、鹿児島をアピールするわけですね
そこで、掲げたスローガンが「熱き鼓動、風は南から。」なんですよね
「おい待てよ!」と
「どこかで似たようなスローガン掲げてませんでしたか?」となったと思いますが
そうなんですよ
鹿児島国文祭でも似たようなものを掲げてたんですね
それは置いといて
その後、2015年に再び鹿児島が2020年の国体開催地として決まるわけです
鹿児島国体を巡る鹿児島県政
そこで、次々と再開発がなされて
伊藤県知事は、スーパーアリーナと鹿児島県立競技場の新設案を発表します
マリンポートの広場に鹿児島県立競技場を新設するというわけですね
当時、よくマリンポートで遊んでいた僕からすると迷惑な話でしたけどね
そしてスーパーアリーナを鹿児島本港地区に新設させる事を発表
更には、市電を鹿児島本校地区まで延長させる着想案も発表したわけなんです
しかも〜ですよ?
東開町から鹿児島本港地区まで繋げる鹿児島臨港道路計画案までも発表するんですよ
イオンモール近く~ドルフィンポートを繋げる臨海道路です。
伊藤元県知事と森元市長というのはですね、とにかく臨海道路にこだわり
就任時に2件新築させたわけです
とにかく鹿児島本港地区にスーパーアリーナを建てたかったみたいで
そのためのインフラ整備計画案を次々と練っていってたわけなんですね
ですが、そんな計画も全て止まったわけですね
理由は単純
「予算が無い‼️」
伊藤元県知事の全ての計画案は莫大な費用が想定されたんですね
そうなると、大赤字間違いなしでして
一部廃案
一部保留となりました。
ちなみに、鹿児島県立競技場新設案も廃案となり
その新設地としていたマリンポートには「じゃあ、ついでにリニューアルさせましょうや‼️」という事で
伊藤元知事の着想案で大規模なリニューアルがされ
完成したのは伊藤元知事が退任した直後となりました。
一方で各市町村でも鹿児島国体に向けて
競技場を改築・新築されました
特に指宿市ではサッカースタジアムを新設
南さつま市でもかぐや姫グラウンドを新設するなど
多くの競技場が新築されました。
っで、一方鹿児島県政では三反園氏が鹿児島県知事に就任
伊藤長期政権を経ての当選
鹿児島国体に向けて、「鹿児島をスポーツシティとしての街づくりを行いたい」と述べ
その後に、鴨池球場大規模改修計画案(鴨池ドーム改築案)を発表し
「雨で開催出来なかったり、近くに宿泊施設・休憩所が無かったりとかなり外部の球児達に不便を与えているため、あの鴨池球場をドームに改築させる計画を立てる」と説明
更には、伊藤元県知事が発表したスーパーアリーナ新設案を引き継ぐ事も発表
そして、そろそろ営業契約が終了するドルフィンポート跡地についても
「新たなサッカースタジアムを新設する!」と発表
三反園氏は特にスポーツ事業に熱心でした
が!
三反園氏が練った計画案も思うようには進まず
それでも、鹿児島市電延長計画も伊藤氏に引き継ぎ森元鹿児島市長と連携して実行させる事を発表しました
「鹿児島国体までに、今ある再開発計画を全て実行させる!」と宣言したものの
こちらも予算不足でなんと全ての再開発計画が止まってしまったのです
気づけば、2020年
国体開催年がやってきたのです
そこではコロナ対応に追われ
鹿児島国体の中止・延期の検討段階に
三反園氏は、「絶対に鹿児島国体は開催させる‼️、そう鹿児島県民の皆さんにお約束します!」
と宣言し
鹿児島国体を延期させる流れに踏み出るわけです
ですが、延期と言っても
既に開催地は全て決められていました
そこで、三反園氏は「翌年開催に検討する‼️」と翌年の開催地である三重県に交渉しますが
こちらも、コロナ禍も影響で中止に
「じゃあ、2022年開催地と交渉しましょう‼️」
という事で交渉しますが
こちらも難航
そんな間に県知事選挙が行われ
三反園氏は落選
塩田氏が鹿児島県知事に就任
そこから塩田知事は、2023年と2025年開催を検討し
それぞれ交渉を行います
すると、佐賀県が2023年開催枠を鹿児島県に讓渡する事を申し出たため
そこで合意し、鹿児島特別国体として2023年に開催する事が正式に発表されました。
にしても、これまでの再開発計画はなんだったんでしょうねww
第3章 国体とは?
国体の歴史
さて、ここではざっくり「国体」の概念について解説していきたいと思います
まず、「国体」の正式名称は「国民体育大会」である事はご存知かと思います
では、なぜ「国体」が行われるようになったのかはご存知でしょうか?
確かに、聞いた事無いですよね
あったら、これはガチのマニアか
雑学好きのどちらかです
普通は知らなくて当然だと思います
実はですね、遡る事戦前に
『明治神宮競技大会』というのがあったんですね
目的がちょっと複雑というか、変わってまして
1つ目が、「明治天皇の聖徳を深く尊敬しながら、他なる偉大な者達を敬うため。」
2つ目が、「国民の身体鍛練、スポーツ精神を強めるため。」
というものなんですよね
2つ目は、結構分かりますが
1つ目はちょっと時代背景が出てますよね。
しかも、当時の行事性格としては
「神事的体育行事」
スポーツに励んで、神様を崇拝するというものだったんですね。
あるいは、天皇陛下を尊敬する証としてのスポーツ行事でもあったわけです。
はっきり言ってしまえば、「天皇陛下を娯楽として喜ばせて満足させる」ようなイベントに過ぎなかったわけです。
ちなみにこの大会では、地域ブロックごとに選ばれた代表選手団12組が出場していまして
全国では無かったんですね
その後、開戦すると地方予選のみを行うようになり
しだいには、人員不足でこの大会は中止されたんですね
戦後も、開催しようとしましたが
GHQから禁止されたんですね
なぜか?
目的を見れば分かりますが、「天皇陛下を崇拝するための神事行事」だったからなんですね
これだと、また「天皇のために」と言って
選手団である若者たちが集結して
クーデターを仕掛けてくるかもしれない
または戦争を起こすかもしれない
それを恐れたんですね。
それ以降、全国的な体育行事というのは行われてなかったわけです
でも、明治神宮競技大会の名残が残っていますよね
そう、『天皇杯』
こちらは国民体育大会の一環として現在も行われています。
話は戻って
明治神宮競技大会が出来なくなった今
何とか、体育行事が出来ないのかと
明治神宮競技大会の主催団体であった大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)の当時の理事である「平沼亮三」さんが各競技関係団体の理事達を岸記念体育会館に緊急招集させて企画会議を開くわけですね
その中で、「国民一人一人がスポーツで活躍する、盛り上げる『全国体育大会』を開催しよう‼️」という事で全面一致し
その後に戦後間もない混乱期に生きる国民を励ますための行事として、GHQに再び申請するわけですよ
そしたら、遂に「国民だけの行事ならOK!」という事で承認されます
更には、日本政府からも補助金40万円(現在の8000億)を得られたわけですよ
そして平沼亮三さん達が関西スポーツ連合会長の春日氏と懇談した上で理事会を結成し
第1回国民体育大会を明治神宮で開催するわけですよ
そう、明治神宮スタートなんですよ
でも第1回当時の頃は、ずっと明治神宮を本会場として行う予定だったんですが
その翌年から、石川県が「次は、ウチでさせてください‼️」と開催地として立候補してきたため
これを受け、日本体育協会が「じゃあ、全国各地の自治体で毎年分担してやりましょう❗️」という事で
現在のような全国各地の自治体が中心となった国体になったわけです。
国体創設者・平沼亮三
ここで、何度も名前が出てきた『平沼亮三』さんについて少しだけ解説させていただくのですが
この方はとても異端な人生と言いますか、偉大なる方なんですよ
まず、この方がいなければ
日本はそんなにスポーツは普及しなかったかもしれない
したとしても、文化として根付くことはなかったし
世界中でも弱かったであろうと
つまり、この方の活躍のおかげで今のスポーツ大国・日本があるという事なんですね
この活躍を今や大きく評価されて、『市民スポーツの父』と呼ばれています
何より、平沼さんは慶應義塾出身、福沢諭吉の門下生なんですよ
直接、福澤諭吉から色々教わった上で野球もやっていたという事で
そこからスポーツに携わるようになるわけですよ
明治維新後は、自らの教養で地元に貢献しようと神奈川県議会議員選挙に出馬し
見事に当選し、政界入りを果たすわけですね
その後も、横浜市議会議員や貴族議員と政治キャリアを積み重ねていきます
そんな中で全日本体育連盟も会長に就任
後の日本体操協会に改組されても
30年間就任します
また、日本陸上競技連盟と日本バレーボール協会の初代理事長・会長も兼任し
ベルリンオリンピックでは、日本代表選手団団長を務めます
この時点で、皆さんの中では肩書き多過ぎ問題が出てくるんですよね
しかもこれらは全て兼任でして、この時まだ貴族議員ですからね
一体、本業は何なのか分からないぐらいの肩書きなのですが
まだまだあります
戦後、貴族議員や肩書きが多過ぎたというのもあり
公職追放を受けます
いや、肩書き多過ぎ問題で追放されとるやないかい!!
ってなったかもしれませんけど
すぐに復帰を果たします
そして、またまた本領発揮を果たし
第一ホテル、玉川電気鉄道、キリンビール、東京會舘、帝国劇場、東京ガスなどの社長を兼任します
もはや人間じゃない💦
なにこれ、一体平沼亮三さんは何人いらっしゃったんでしょうねw
それぐらいレベチな肩書きを持ってるんですよ
更には、横浜市長に就任し
横浜開港100年祭の実行委員長も務めています
もう、この時点で完全に労基を大きく越えています
兼任し過ぎやろ
でももっとあります
大日本体育協会理事、後の日本体育協会初代理事長も就任
横浜商工会議所の9代目会頭に就任
更には、76歳で国体創設者として第10回国民体育大会の聖火最終ランナーを務めました
それを見た、昭和天皇が大歓喜したという記録が残されています
凄いですねぇ
ちなみに、横浜市長在任中に慶應義塾病院で亡くなられたという事で
かつて、福澤諭吉のもとで学んだまだ建てられたばかりの小さかった慶應義塾の門下生が
戦後の日本屈指の名門大学となった慶應義塾大学病院で最期を迎える
という
全てにおいて、異端なる人生を歩んだ方でした
しかもですね
その後も、野球殿堂入りも果たしてるわけですよ
つまり、「日本に野球を普及させるのに貢献した」という事で
プロ野球選手ではない方では初めての殿堂入りを果たすわけですよ
その他にも、多くの偉業を成し遂げています
詳しくは是非、調べでみてください。
まとめ
という事で、国体の歴史について解説してきましたが
最後に、皆さん
実は今回の鹿児島国体で最後って知ってましたか?
え〜‼️
そうなんです、『国体』は今年の鹿児島で最後となります
来年からは、『国民スポーツ大会』として一部の大会内容をリニューアルして開催されます
第1回から受け継がれた内容は、今大会で最後となります
ですので、鹿児島は国体の歴史に大きく刻まれるかたちとなりました
ですので、皆さん
是非最後まで盛り上がりましょう‼️
という事で、鹿児島国体について解説してきましたが
こうして見ると、我々は今
大きな歴史的瞬間に生きているんだ‼️
という事がはっきり分かったかと思います
今回の解説はですね、容量の問題で省略した内容も多くあります
これを読んで、もし興味を持ってくださった方は
書籍なり、検索エンジンなりで調べてみてください
面白い内容が多く書かれております
今後もこのブログでは、色々な時事解説をしていきますのでフォローのほうをよろしくお願いします🙏
では、また次の記事でお会いしましょう
『燃ゆる歴史は、我々によって作られている事を忘れるな‼️』
ではまた!