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人生は読書感想文

過去の自分も全部みんな、美しいって言いたいのはわがままだろうか。




今の自分を認めていくこと。
それはきっと、健康的に生きていく上ではほぼ不可欠なことで、そのくせにやたら難易度の高いこと、だと思う。

まあ、平たく言ってしまえば「自己肯定感」のことだろうか。

どうやって自己肯定感を満たしていこうか。
20年よりももうしばらく長く生きたって、俄然わからないまま。
いや、むしろ年々下手になっている気がする。


そういえば、何かに取り組むときは自分の成長が見えることって大切だと度々聞く。
逆に、それがないと苦しくもなると。

それこそ受験生だった頃には、基礎がある程度身に着いてくると模試とかの点数の伸びが鈍くなって苦しい時期になるよ、とかなんとかいろんな人が言ってたなあ。

そういうのも、自分の成長や頑張りが可視化されることが、自己肯定感やモチベーションの維持にとって良い栄養素になる、ということなんだろうね。

それも、とりわけ長期的な取り組みのとき。

人生だって、長期的な取り組みじゃんねぇ、究極の。



そうなると。
これはまあちょっと意地悪な考え方なんだけど、自己肯定感を満たす方法として、「過去の自分をこき下ろす」というのが実はとても手っ取り早い手段なんじゃないか、と思ってしまった。

「あの頃の自分は馬鹿だった」
そう言っておけば、既に改善できた自分の短所を抽出し、「過去の短所を克服した」という部分にフォーカスを当てることができる。
自分の成長をお手軽に実感できてしまう。


そのくせ、こき下ろす対象は自分なので、自分より劣っている部分を他者に見つけて見下すなんてことはしなくていいのがとても好都合。

それなりに強い倫理観を備えてしまったなら尚更。
「人を見下して自己肯定感を得る」なんて、醜いと思ってしまうかもしれない。
我に返ってしまえば余計に自己嫌悪に陥りそうな行為だ。
それに手を染めずに済むのなら、それはあまりにも美味しい。

「本能は比較対象を用意して安心したいけれど、人を見下したくはないって理性が言っている」
ならば、自分を比較対象にしてしまえばいいのだ。
そうして、成長体験を得られれば非の打ちどころもない。

それに、自分を下げるのって、上手く使えばそれは「謙虚さ」になる。
過剰な自虐になってしまうと違ってくるけれど、表現の仕方によっては、ただただウケがいい話になる。


「あの頃の自分はどこどこが足りていなかった」
「でも今の自分はこんなことを学び、心に刻んでいる」
どこかで見たような文脈。
そうだ、読書感想文だ。


小中はおろか高校もとっくに卒業してしまって遠く過ぎ去った記憶になっていたけれど、そういえば読書感想文なんてものがあった。
自由研究と並ぶ、夏休みの大型課題。

幸いにも私は本を読めば割といくらでも感想は書けたタイプだったし、かといって賞レースを目指すようなガチっ気もなかった。
なのでたぶん人より苦労せずに書いていたのだけれど、読書感想文が本当に苦手な人や、コンクールで高い評価を狙う人にとっては異様に重たい課題だったんだろうことも理解したつもりでいた。

「どうやったら読書感想文を上手く書けるのか」
そういうトピックがいろんなところで語られている印象はある。
夏休みの始まる頃、ちょうど今頃の季節、よく聞く気がする。

たぶんなんだけど、本を読む前と比べて自分の何が変わったのか、それを読書体験として感想文を書くのがかなり定番の書き方なんだと思う。
仮にシングルマザーとその子どもを描いた小説を読んだとして、「今まで私は片親のいない子の気持ちを全くわかっていなかった。この本を読んで、あの時の発言が友達を傷つけていたのかもしれないと気づいた。これからは~」とか、そんな感じで。

とにかく、本を読む前の自分に見られた何らかの考えや言動を「不足」「過ち」ということにする。
そうして、「あの頃の自分は間違っていた」という反省のニュアンスを含みながら、本を読んで得た学びとそれを経た今後の自分の偉大さを意気揚々と書き記す。
唯一解ではないけれど、お手軽にある程度評価される書き方として使っていた人もいるはず。
少なくとも私は、そんな読書感想文はよく見かけたと思う。

「読書感想文を書くため」「自己肯定感を満たすため」
目的は全く違えど、どちらも過去の自分をこき下ろすことで上手くいくというのならば、まさに人生は読書感想文だ。


とまあ、さすがに意地悪な表現が過ぎたけれど、いくら人生を乗り越えるためとはいえ読書感想文のように昔の自分を悪く言うのを、私は好きにはなれない。

そもそも、今の自分と過去の自分とでは、命に与えられてきた時間や経験の量が違う。
異なる額の資産をもった二人がいて、お金で手に入れられるものの限界が違うのは当然の話。
今の自分が精いっぱいの知恵を振り絞ってようやく選択できる行動を、今よりも幼く経験の薄い過去の自分が全て網羅できるわけがない。

だから、気安く過去の自分をこき下ろすのは、ある意味とても卑怯な行為だと感じてしまう。
だって、条件が違うんだもの。

今の自分にとっては「馬鹿だった」と思ってしまうような過去の自分の行いもあるだろう。
けれどそれも、当時の自分が持ち合わせていた環境や心で考え得る最適解を健気に選んできた結果なのかもしれない。
もちろん、全てがそうだとは言わなくても。

過去の自分への駄目出しは簡単でも、ではいざ、今の自分が当時の自分と同じ環境に入ったとして、本当に望ましい行動を選択することができるという自信はあるのだろうか。


そしてもうひとつ、当時の自分と同じ弱点を持った人を見かけた時、その人を真にリスペクトすることができるのかという点もつっかかる。

人はどうしたって「話の筋が通っているか」がある程度は気になるらしい。
感情と論理のどちらかだけで生きていることはない。
論理の破綻は、無意識であっても気づいてしまえば気持ちが悪い。

「○○な自分は馬鹿だった」と思い込んでしまったら、論理的にはその「○○」を抱えた誰かも馬鹿となってしまう。

本当は、人を下げなくて済むと思っていたのに。
結果として、過去の自分と同じ課題を今まさに抱えた他者を、多少なりとも蔑んでしまわないだろうか。

良き生を求めるその強さと、簡単には自己肯定できない弱さの産物として、自分の経験と価値観をもとに見ず知らずの誰かを厳しく揶揄してしまわないだろうか。

容易く自分を否定してしまえば、それと同じような誰かも否定することになる。
そして否定されたピュアな誰かは、そんな自身を否定し始める。

もしそうやって自己否定と他者否定が伝播していくのだとしたら、過去の自分をこき下ろして自己肯定感を満たすなんて私はしたくない。
人生に稚拙な過去の自分にだって、いいところを探してあげたい。
自分と同じような人間が、リスペクトすべき他者が、きっとそこらじゅうにいるのだから。



なるほど、私が自己肯定感を満たすのが下手になったのは、満たし方にこだわりを持つようになったからなんだね、きっと。

それでも私はそれなりの倫理観と繊細な心を持ち合わせてしまった以上、手段を択ばなくては自己肯定感を満たせる道がない。

人生は読書感想文、だなんてそんな話ないわ。


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