人の命を何だと思って
ここ最近の夜の過ちの懺悔。
近頃どうにもメンタルが不安定らしい。
定期的に眠れない時期がやってくる。
ただ眠れない日が頻繁に訪れるのとはちょっと違う。
どうしても夜になかなか寝つけない、というのが何日も続く。
そうして、しばらくするとまた正常に眠れる日々が取り戻せるのだけれど、またしばらくすると毎日眠れない生活になる。
真っ暗な部屋で、ひとりぼっち布団の中。
身体こそ大人しく寝転がっていても、眠気はないので頭は無駄に元気。
眠れないようなときって大抵ネガティブなことしか考えられないようになっているから、瞬く間に自己卑下と不安や絶望で頭の中が塗り固められる。
頑張ってポジティブな視点を持ち込んで自分に説得をしても、すぐにまたネガティブな反駁で上書きされてしまう。
最近それが特に酷いみたいで、真夜中の頭の中のネガティブがより大きなものになってきた。
毎夜孤独な布団の中で不安や絶望と共に過ごし、昼間だって心の元気はない。
そんな生活をしているうちに、ある夜無性に泣きたくなった。
だけど、どれだけ泣きたくても、苦しいと思っても、涙が出なかった。
幼い頃は泣き虫だったはずなのにな。
いくらか成長して、気づいた時には上手く泣けなくなっていて、最後に泣いたのがいつだったかなんて正直覚えていない。
この記事にもしたのだけれど、私は「泣く」こと自体はただの行為でしかないと思っている。
同じだけ苦しんでいても、それで泣ける人もいれば泣けない人もいる。
だから、泣いているか否かでその人の苦しみを量れたものではないはず。
けれど、その「泣く」という行為が、泣く本人にとって意味があることも間違いない思う。
誰かに苦しみを伝える手段となるかもしれないし、誰と関わらなくてもただ泣くだけで幾分か心がすっきりするかもしれない。
だからこそ、泣きたくても泣けなくて辛い人はたくさんいるだろうし、いつからか私だってそのひとりになっちゃった。
それで、泣きたくても泣けない私は良くない方法に手を染めてしまった。
その日、もう寝るのを諦めて、動画を探した。
泣けるドキュメンタリー。
大学生になってから、ドキュメンタリー作品が好きになって、たまに見ることがある。
深夜のテレビやっているドキュメンタリー番組だって昔はまるで興味がなかったのに。
感動的なエピソードや、悲しいエピソードのものを見たら泣けないかな。
思い立って、動画を漁った。
一応、涙腺は普段より弱くなっていたようで、少しだけ涙を零せた。
ちょっと嬉しかった。
けれどその後、満たされたのは罪悪感。
ドキュメンタリーに映っているのは、実在の人々の人生。
あんまり詳しくは言わないけれど、大きな心の傷を負ったり、大切なものを失ったりした人の姿が描かれていることもある。
そして出演されている方々は、そんな繊細でシリアスな人生の一部分を、映像にして公開されることに許可を下ろしている。
到底簡単には下せない、勇気ある偉大な決断。
それらドキュメンタリーには、たくさんの命が関わっている。
それを私は、ただ泣いてしまいたいという私利私欲のために利用した。
自分には想像もつかない心情を抱え、その経験を見せて頂いているというのに、これが真に出演者にリスペクトの念を抱いた人間の見方なのか。
高校時代の部活でも映像制作をしていた身として、映像作品が生まれるまでに関わる人々への尊敬は、人よりも心得ているつもりだった。
それがこの有様なんだもの、底の知れた人間だわ。
ごめんなさい。