『僕らには僕らの言葉がある2』出版に寄せて
ごあいさつ
いつも応援ありがとうございます。
『僕らには僕らの言葉がある』出版からおよそ2年。
おかげさまで2巻目を出すことができました。
1冊で終われるように構成した本でしたが「続きが読みたい」というお声をたくさんいただいて、とても嬉しかったです。私個人としても、描きたいことはまだまだあるので、こうしてまた書籍としてお届けできる機会に恵まれて本当にありがたかったです。
ということで、1巻の終わりで無事に練習試合にも出られて、めでたしめでたしとなっていたように見えたノナと真白のバッテリーでしたが。実はそこはゴールではなく、入り口に過ぎなかった⋯というところを2巻では全編描き下ろしで描かせてもらいました。
ろう者である真白はノナという“よき聴者”と出会い、そのおかげで聴者主体のチームの輪に加わることができた⋯というのはいかにも「いい話」で、特に聴者の場合はそこに疑問を持つ人は少ないと思うのですが(私もノナや真白と出会う前だったら特に何も感じなかったと思います)、私は内心、絶対にここで終わりたくありませんでした。
1人の聴者(ノナ)と親交を深めることは、真白がろう者として社会的にそして主体的に聴者主体の集団の中に入っていく際に起こる問題の解決の足掛かりにはなっても、解決策そのものにはなりえないと感じていたからです。
単純にノナと真白2人だけの関係性さえしっかり描ければ成立する趣旨の題材なら2人の親交についてだけにフォーカスしても別に問題ないと思いますが、私は正直そういうふうには思えませんでした。
なぜなら2人は高校の硬式野球部というそれなりの規模の、そして色々と独特な特徴を持つ組織の一員でもあります。そこがとても重要なところなんです。そしてそもそも真白は聴者主体の硬式野球部でろう者としてプレーする方法を学ぶという目的で都立高校にインテしてきているわけですから、2人が仲良くなりさえできればそれ以外のことはどうでもいいというわけにはいかないのですよね。作者としては“真白がろう者として聴者主体の社会に主体的に参画するための学び”⋯つまり、インテグレーションという、一般的な聴者の感覚から見ればやや特殊な進学の仕方をした彼がなぜそうする必要があったかを、野球部での活動を通して具体的に読者に示すことができたらと思いました。
1巻よりも野球部での練習の描写の比重がグッと高くなったので、あまり野球になじみのない方は戸惑われたかもしれませんが、ここはひとつ、額面通り野球部の練習としてだけではなく、似たようなことは自分が今所属している社会的な組織でも起こりうるという視点でも読んでみてもらえるとありがたいです。
なんとなく面白そうだからとか人間関係を盛り上げるエッセンスとしてろう者のキャラクターを出してるわけではなくて、相澤真白という、とある1人のろう者の存在を漫画の中にできるだけ忠実に、そして主体的に存在させたい。そのためにはどうしたらいいか?1巻はほぼ丸々1冊を「相澤真白はろう者である」とはどういうことか?の説明に費やした形だったので、そこを超えた先の2巻の内容こそがこの漫画の核にあたる部分かもしれませんね。だからほんとに、2巻が出るか出ないかでこの漫画の在り方は違うものになっていた可能性があります。
※この先、書籍の内容のネタバレがありますので未読の方はご注意ください。
本当は全5話に対して全てコメントしたいことがあるんですが、それをやると1冊丸々ネタバレになってしまうので、どうしてもコメントしておきたい第1話と、試し読みでフルで読むことができる第3話、2巻の結びの話である第5話のことだけにしておきます。
第1話「SEE / YOU / AGAIN」について
全5話の中でこの第1話だけ、時系列が他の4話よりも前どころか1巻の第1話よりも少し前です。真白が入学するより前の話。そこだけ見るとなぜ1巻の時にこれをまずもってこなかったのかということになりますが、私としては1巻の内容をまず全て読んでもらった上でないと初出の情報量が多すぎて伝わりづらい内容だと判断したのでここに持ってきました。
1巻では姿を見せることがなかった野口監督が新たに物語に登場してきます。というか、この第1話に関してはノナや真白ではなくこの野口監督が主役の話です。
そしてこの第1話は作中の表現に関して作者・出版社・監修者との間で多くの意見が交わされ、長い議論の末にようやく現在の形のままで掲載が叶った話でもあります。
すでにお読みになった方はお気づきかと思いますが、『僕らには僕らの言葉がある2』には目次のページに通常の但し書きに加えて「本書には、過去の出来事や当時の社会背景を反映した表現が含まれています。これらは、当時の文化的、社会的状況を描くために使用されており、現代の価値観にそぐわない表現が含まれる場合があります。本書におけるこれらの表現は、特定の個人や集団を中傷・軽視する意図ではなく、時代背景を忠実に再現し、当時の社会状況を正確に伝えることを目的としています。(編集部)」という但し書きが追加で入っております。
すでに公開されているあらすじ画像で”彼(=野口監督)が人知れず抱えてきたある「罪」の記憶”という記述がありますが、この「罪」というのが具体的にどういう内容だったのかを描く過程で劇中に見られる表現に現代の価値観にはそぐわないと感じられる部分がある、ということです。
インターネット上のものも書籍も、今までは基本的に『僕らには僕らの言葉がある』は、聴者がろう者に対して暴力をふるうとか、ひどい言葉で中傷するとか、そういった場面は出てこない漫画でした。なので今回2巻を読んで驚かれた方もいらっしゃるのではないかと思います。でも私にはこの話を描くにあたってひとつの強い思いがありました。
「自省」という視点から、ろう者と聴者の関係を見た話を描きたかったのです。
誓って言いますが、私自身はろう者の方々に対して暴力をふるったり、ひどい言葉を言って意図的に傷つけようとしたことはありません。(※意図してはいないけれども客観的事実として傷つけてしまったというようなことは無数にあると思いますが)
しかし私個人と言う小さな枠を外し、「聴者」という大きなくくりとして考えた場合はどうでしょうか?
「聴者」は果たして、いつどんな時代でも、ろう者という人々を正しい知識をもとに理解することができていたでしょうか。ろう者の言葉や文化に対等な視点から目を向けたり、意見をきこうとしてきたでしょうか。
ろう者側の視点から日本の歴史や社会のあゆみを見てみると、答えがノーであることは一目瞭然です。私は自分自身が聴者である以上その事実から目を背けることは絶対にできないし、たとえ私自身がまだ生まれていない時代のことだったとしても、「多くの聴者は長年にわたり誤った認識のもとでろう者に対して偏見を抱き、不当な差別をしてきた」という「社会としての罪」を全く背負っていないとは言えないと思うのです。
作中で少年期の野口監督の罪として描かれた内容はそっくりそのまま、聴者として生き、そして聴者としての立場からこのような漫画を描いている私自身が”社会的に”抱えている罪でもあるということです。
その罪を黙って抱えていくのか、何らかの形で省みようとするのかは人それぞれですが、私は後者を選びました。今さら過去のことをあれこれ言っても仕方がない、これからを良くしていければそれでいいじゃないかという意見もそれはそれでひとつの考えで、その思いが原動力となって良い方向に社会が動くこともあるので、否定することはできません。
でも、「仕方ない」「これからを良くしていければそれでいい」というのを聴者の私が言うのは私個人としてはなんだか違うような気がしています。
冒頭で「作者・出版社・監修者との間で多くの意見が交わされ、長い議論の末にようやく現在の形のままで掲載が叶った」と書きましたが、その議論の大部分は聴者の間だけで行われたものであるということも併せて皆様にお伝えしておきたいです。「掲載に時間がかかった」=「当事者からストップがかかったのに無理やり掲載した」と思う方もいらっしゃると思いますがそうではありません。この第1話の内容に対して問題提起をしたのも、このまま載せるかどうかを検討する必要があると判断したのも、全て聴者です。
議論の過程で、聴者の間だけで決めるのではなく当事者である監修の皆様にも意見をお伺いするべきだと私は思ったので、そうさせてもらいました。そしてもしここで監修の皆様も「このまま載せてほしくない」「内容を変えてほしい」というご意見ならばそれに従うつもりでいました。しかし、監修の皆様から実際に届いたのは「差別を肯定する内容ではないし、事実としてもこういうことは十分にありえる。ろう者に対する差別について考える機会にするという意味でぜひ描いてほしい」という趣旨のご意見でした。
手話監修の皆様には1巻の時からすでに手話表現において非常にきめ細やかな監修でお世話になってきましたが、この2巻に関しては手話監修という枠組みを超えた部分にもお力添えをいただきました。この場を借りて改めて御礼申し上げます。私は今回のことで改めて、当事者の意向を確認することの大切さを痛感しました。もしも聴者の想像する「傷つける”かもしれない”」「不適切である”可能性がある”」という不確定的な要素のみで議論が進んでいたら…この1話自体が読者の皆様に読んでいただくことができなかった可能性さえあります。
もちろん、今を生きる全てのろう者の方々のご意見をお伺いできたわけではありませんので、当初の懸念どおり、これは載せてほしくなかったと感じる方もいらっしゃるのではないかと思います。その点については申し訳ございません。ただ、エンタメとしてそのほうが面白いからとかそういう軽率な動機ではなく、上記のような意図と経緯があって掲載された話であるということだけはお伝えしたいです。
余談ですが、2024年10月、上述のとおり第1話が掲載できるかどうかが話し合われているとき…もしかしたらこのままでは第1話は掲載ができなくなるのではないかと不安に思いながら過ごしていたとき、関西学院大学手話言語研究センターから、手話言語国際デーに関するコラムが発表されました。
私は当時もXに書きましたが、このコラムを読んでとても驚きました。まさに「自省」について触れられている箇所があったからです。
私の漫画はここまで明確には言語化できていない部分がありますが…目指したいところは、まさにこちらのコラムに書かれていることです。
「聴者」としての罪…「自省」について…
このあたりのことは、同じく聴者としての立場から聴覚障害や手話、ろう者といった題材を取り扱って漫画を描いておられる他の作家さんはどのようにお考えの上で制作されているのかとか、もし機会があればそのあたりのお話をきいてみたいなと思うことがあるのですが、それにしては言い出しっぺの私だけがあまりにも何者かが不明すぎてとても実現できそうにないので果てなき夢として抱え続けて生きていきます…。
とにかく、不安に思っていたところに関西学院大学手話言語研究センターのコラムが一筋の光を照らしてくださったおかげで、私はどん底までは落ち込まなくてすみました。
それからもうひとつ、上記の件とはまた別に、出版社から「この表現については再考してほしい」と言われた表現がありました。
それは「違う」という表現です。
具体的には、
初めて出会った”ろう”の子供を前に戸惑う少年時代の野口監督に向かって、同級生の男の子が「あいつは俺らとはちゃうねん」と説明するシーンと、現代で、野口監督が部員たちに向かって「(相澤は)確かに俺達とは違う。色んな部分が違うけど…ただそれだけだ」と言う2つのシーンがあります。
それぞれニュアンスは異なりますがいずれも、「ろう者は聴者とは違う」という意味を根幹としたセリフです。この「違う」という表現がたとえば「同じ人間ではない」というような、差別的なニュアンスにとられるのではないか、ということでした。
これについても上記の件と合わせて、当事者である監修の皆様にご意見をうかがってみました。「ろう者と聴者は違う」という表現について、どう思うか?…総合的に「問題ないと思う」という趣旨のご意見が返ってきました。そしてその中に「違うということに、良し悪しや悲しさなどはない。ただ”みんなと違う”というだけ」という、まさに作中の野口監督が言わんとしていたこととリンクするご意見もありました。そう。私もそれが言いたかったんです。
「違う」ということにそれ以上の意味を持たせようするかどうかは個人の自由だし、私の漫画を読んで読者の思うことを操作することはできません、ただ、発信する側としてはできるだけ「違う」ということにそれ以上の意味を持たせないようにしたいと思いました。
漫画でいうところの「演出」「デフォルメ」は「違う」ということにそれ以上の意味を持たせることができてしまう行為です。漫画という媒体を使っている以上ゼロにはできませんが、発信する段階でそれをしてしまうことを極力避けたかったので、特に後半の大人になった野口監督が発するセリフには「違う。ただそれだけだ」という表現を選びました。(逆に前半の子供のセリフのほうはむしろ、あえて「それ以上の意味を持たせている」セリフなのです)
これは第3話とも関係してくる話なんですが、そもそも私自身が、「違う」という言葉にネガティブな印象を抱いたことがない人生を送ってきました。むしろ、早いめにそう言ってくれたほうがどんなに楽だったかと。
特に高校生くらいまでの間はとにかく何をやっても「どうして人と同じようにできないのか」と怒られたかと思えば「人ができないことを勝手にやったらだめ」と怒られたり、そんなことばかりでした。だからむしろ「あなたも私も同じ人間だよ」とか言われると…ホッとするどころかなんだかうすら寒い気持ちになりますよ。よく言うよ、じゃあなんで私は延々と「人と同じようにしろ」と言われ続けなければならなかったのか?と疑問ばかりが頭に浮かびます。
「あなたも私も同じ人間だよ」という言葉は「”私と”同じだよ」という意味で言ってるんだろうなとしか私には思えないんです。これまでの経験上、その言葉が出てくる時点で、向こうもこちらも対等ということはまずない。どんなに言葉づかいや話し方がやさしくても、一段高いところから私を見下ろして、「ここまで引き上げてあげるね」とか「そっちまで降りてあげるね」と言いたい時にしか、その言葉は出てこないんですよ。でも、言った側はいつでも、良いことを言ってあげた!と思っているので、ホッとしているそぶりを見せないと機嫌をそこねてしまう。(ところが私はホッとするふりというのがどうも下手で、固まってしまうので、その場が妙な空気になりがちです…すいません)
私は言われる側としてさんざんこの気持ち悪さを経験しているせいもあって、言う側に回りたいと思ったことはありません。ろう者を取り巻く問題について考えるときもそうです。「ろう者も聴者と同じ人間なんです!」と言ったところでなんの解決にもならない。むしろ「ろう者と聴者とは違う」という客観的事実を認める段階でまずつまづいているから、そこから先のこともなかなかうまくいかないのでは…と感じてしまって。聴者としての感覚で見ても共感できるところを必死で探し出して「ほら、こんなところが同じだねっ…!」とムリヤリ喜ぶよりは、むしろ聴者としての感覚のままでは共感できないところこそを「なるほど、こういうところが違うんだ」とフラットに受け止めることのほうが、新しい学びにもなるし、知らない扉を開く鍵になるんじゃないかと。シンパシーじゃなくてエンパシーで目の前の事象をとらえたい。前にもXで書いたことあるけど、日本語ではこの二つの単語はどちらも「共感」「感情移入」という訳になってしまうんですよね…。そして、往々にしてシンパシーの意味でしか「共感・感情移入」は語られず、エンパシーとしてのそれは議論のテーブルにさえ上がってくることがなかなかない。
私がしたいのはエンパシーのほうの話なんだけど、ただ生きてるだけでは誰も私の前には座ってくれないので、漫画を描いてる感じ。
私の漫画って基本的に読み味がさらっとしてるとか、演出が少ないって言われがちなんですけど、要は本能的に「それ以上の意味を持たせること」を避けてるんだと思います。それをした瞬間にシンパシーでしか受け取ってもらえなくなってしまうのがわかっているから。演出もりもりのフィクション作品になかなかどっぷり入り込めないのも、やっぱり本能的に警戒してるんだろうなぁと思うんですよね。「それ以上の意味を持たせること」の気持ち悪さ、シンパシーで受け取るのを強制されることに対する恐怖のほうがギリギリ勝っちゃうんだと思う。そういう経験をしたことがない人には、なかなかご理解いただけない思考プロセスだと思うんですけど…。
第3話「汝の隣人(となりびと)を愛せよ」について
※このお話は、全編が試し読みで読めます。
なんか急にキリスト教の話とか出てきてやっぱり戸惑われた方もいるんではと思うんですけど、単行本内のコメントにも書きましたが私自身が宗教二世であることがこのお話を描くきっかけになっています。
宗教二世というと昨今取りざたされている問題のせいもあって不穏なイメージがあるかもしれませんが私の場合は特に宗教二世だからといって深刻なトラブルを抱えているとかということはなくて、単純にキリスト教信者の家に生まれた子供であるというだけです。私自身は信仰を強制されていませんし、大人になってからは特に、いつも一歩引いたところから見ているという感じです。でも聖書や讃美歌、教会というものが生まれたその瞬間から生活のすぐそばにあったので、信仰を持つか持たないかはともかくとして、その教義に触れ考える機会が日常的にあった。そういう下地があってのこの話です。
「汝の隣人を愛せよ」という聖書の言葉は「自分のことを愛するのと同じように、他人のことも愛しなさい」という解釈で説明されることが多いですが、私はこの解釈にはひとつの穴があると感じてきました。
「自分のことを愛するのと同じように」…つまり、まず「自分の心身に置き換えて考えてみなさい」ということなんですが、これってまさに、エンパシーではなくシンパシーではないですか?あくまでも自分の感覚を通して、他人を見よと。
つまり、自分の心身に置き換えて考えられないような相手のことは、愛さなくてもよい。というふうに、言い換えることができてしまいませんか。
私にはどうしてもこの穴が大きく見えてしまってですね…。
聖書において「隣人」という言葉は書かれているお話によってさまざまな解釈で出てきます。特に「汝の隣人を愛せよ」という聖書の言葉が出てくるレビ記が載っている旧約聖書の時点では「隣人」とは同国民のことを指す言葉で、外国人は含まれていないようです。え~じゃあやっぱり、「自分の心身に置き換えて考えられないような相手(シンパシーの意味で共感できない相手)のことは、愛さなくてもよい」ってことになっちゃうのでは…。。と思っていると、実は新約聖書にも再び「隣人」に関する印象的な話が出てきます。ルカによる福音書10章です。
いわゆる「善きサマリヤ人」のお話ですよね。
ここでは、イエス・キリストは彼と彼の民から見て自国民ではないはずのサマリヤ人のことを「隣人」であると言っています。この話は旧約聖書とは違う「隣人」の定義が示されたというのがよほど印象的だったから、書物に残ってるんだと思うんですよね。
「相手のことをどう思うかではなく、相手のために何ができるか…」
漫画本編の中で、清水先輩にママンが言った言葉は、この「善きサマリヤ人」の話からきています。”どう思うか”を優先した人たちは、困っている旅人を助けなかった。”何ができるか”を優先した人だけが、困っている旅人を助け、旅人の「隣人」となった…という。清水先輩自身も聴こえない後輩が入ってくると聞いて、まず「善きサマリヤ人」の話を思い起こしたのではないでしょうか。
旧約聖書時点での「汝の隣人を愛せよ」という言葉の「隣人」には、真白のような、聴者から見て「自分に置き換えて考えられない人」は含まれていないことになります。が、新約聖書まで読んでからまた戻って、現代の価値観にも照らし合わせて考えたときには、真白もこの野球部にとっての「隣人」となり、そして部員たち一人一人もまた、真白にとっての「隣人」となりえるのではないか?
ページ数が限られているので本編ではこの「隣人」のくだりに関してはあくまで清水先輩の心の動きのみを追いましたが、そういうことを考えながら描いた話でした。
第5話「もうひとつの道」について
描きたいことをしっかり描いていたら、なんだかんだで、『僕らには僕らの言葉がある』史上1話当たりのページ数がもっとも多い話になりました。雑誌連載ではなかなかこんなことはできないですよね…!単独で書籍としての発表だったからこそ可能だった構成です。
長いんですけど、これくらいページ数を使ってでも描かなきゃいけないことだったとも思います。先に述べた“真白がろう者として聴者主体の社会に主体的に参画するための学び”⋯つまり、インテグレーションという、一般的な聴者の感覚から見ればやや特殊な進学の仕方をした彼がなぜそうする必要があったかを、野球部での活動を通して具体的に読者に示す…という要素の、とっかかりになる話なので。
この話で野口監督は聴者である先輩たちだけではなくてろう者である真白にも「指導」をしていますが、これは前から描きたいと思ってきたシーンのひとつでもあります。聴こえる先輩たちだけに「もっと気をつかってあげなきゃダメじゃないか」と言うだけでは、それは指導ではなく”特別扱い”になっちゃう。でも、かといって聴こえない真白に対してどう指導すれば、差別にあたらないのか…というところが指導するうえでは一番難しいと思うんです。
もちろん野口監督の選んだ答えが正解だとは言い切れません。もっといいやりかたもあったかもしれませんよね。また、ろう者の視点から見て、「いや、たとえばもっとこういうふうに指導してもらえたら…」ということも色々出てくると思います。(ぜひ話のネタにしてください)
でもとにかくこういう、「聴者とろう者が一緒にひとつのプレーを練習をしているシーン」を詳細に描いている漫画作品がほかには見当たらないので、他に誰も描いてないんだったら私が描こうと思って。面白いのかどうかはともかくとしてね。作中の彼らが試行錯誤しているのと同じように、私も明確な正解はどこにもない状態で必死で考えながら描いています。
おわりに
と、ここまで真白サイドのことをメインに書きましたが
2巻を通してのもうひとつの軸として、1巻に比べるとノナの人物像にも少し深めに切り込んでいます。第5話「もうひとつの道」のラストに繋がる種を、少しずつ蒔き続けて…。
私はこの『僕らには僕らの言葉がある』を描くまではずっと男性向け漫画の畑で野球漫画を描いてきましたが、その時の経験がフィードバックされているのは圧倒的にノナのことを描いてるときのほうです。野球描写とかそういうことではなく内面的なところで。男性向け漫画のほうで「こういうことすると好感度が低くなるからやめたほうがいいかも」と言われていた要素をあえて抑えることなくことごとく入れています。これも1話ごとにアンケートがあってその順位でいろいろ決まる雑誌連載だと私のような立ち位置の作家ではなかなか厳しかったと思うので、思うようにやらせてもらえて今の制作環境には感謝しかないのです。
ノナはノナで、真白とはまた違った課題をかかえていますね。
「ろう者である真白は最初は困っていたけど、ノナというよき理解者を得ることができました、めでたしめでたし」で終わってはだめなんですよ。そこからが本当の始まりだから…。もしよかったら、ノナと真白がどうなっていくのか、ぜひ見守ってほしいです。
とりとめのない文章を、
ここまで読んでくださってありがとうございました。
詠里