影霊 九の章 9
北海道、雪女の隠れ里
「何してるんですの? 地図なんか広げて」
日が暮れて銀竹が自身の屋敷に戻ると、幽吹が地図に向き合っていた。
「ああ、これ? 司を連れて、どこに行こうかなって。とりあえず富士登山とかしたいわよね。あんたも行く?」
銀竹は白い雪混じりの溜め息を吐く。
「はぁ……もし、司くんが月夜に負けたらの話ですわよね」
「そうよ。でも、負けるでしょ。村の事は月夜に任しとけばいいのよ。私と月夜の意思は合致してる」
「司くんの意思はどうなんですの?」
「司? 司は……」
幽吹は少し言葉に詰まった。
司はどう考えているのだろう。
「……司にその気は無いわよ。彼は自分が劣ってるって分かってるもの」
「そう決めつけるのはいかがなものかと思います」
「何よ。あんただって、村の事は月夜に任した方が良いって言ってたじゃない」
「今のワタクシは、初瀬村の妖怪ではありませんもの。適当に何とでも言いますわ」
「うわっ、それを自分で言うの?」
「ですが……もし、ワタクシが今も村の妖怪の一員なら……司くんと月夜の戦い、この目で見てみたいですわね……あなたも、同じ気持ちでは無くて?」
「結果は見えてるわ」
「我慢してるのは分かりますわ。あなた、ここ数日一層落ち着きがありませんもの」
幽吹は顔を伏せた。銀竹に見透かされていた事を知り、急に恥ずかしくなってきたからだった。
「今からでは、間に合うかどうかは分かりませんが、行ってみませんか? ワタクシもご一緒しますわ」
「……駄目よ。私が行ったら、絶対司の味方をしちゃう」
幽吹は小さく呟いた。
「それは、ワタクシが止めて差し上げますから。氷漬けにしてでも」
銀竹は幽吹に白い手を差し伸べた。
その瞬間……
雪女の隠れ里に雷鳴が轟いた。
「えっ!? 雷? 今日は雲ひとつ無い良い天気でしたのに!」
銀竹が驚く。
「はぁ、晴天の霹靂って奴ね」
幽吹は溜め息を吐いた。銀竹とは違って、何が起きたか理解している。
「幽吹! 山陰の幽吹はいるか!? いや、魑魅の幽吹か!? 名前が多くてややこしい!」
凛とした声が響く。
「……この声は、八房!?」
銀竹は、屋敷から飛び出した。
幽吹ものんびりと後に続く。
大きな黒い犬は、雷の残滓を散らしながら幽吹の名を呼び続けていた。
その周りには隠れ里の雪女が集まる。
「八房、どうしたんですの? 幽吹ならここにいますわ」
銀竹が近付くと、雪女達は道を譲る。
「銀竹。やはりここに幽吹がいたか……出てこい幽吹!」
八房が吠える。
「はいはい、そんなきゃんきゃん喚かなくてもここにいるわよ」
幽吹はゆっくりと八房の前に姿を現す。
「……選挙は明日だぞ! お前はこんなところで何をしている!?」
八房は怒鳴る。
「ええっ、ワタクシ達、今から行こうとしてたんですけれど……まさかもう明日だなんて……」
銀竹が幽吹を運びながら夜通し空を飛んだとしても、間に合わせるのは難しい。
「幽吹、この八房に乗れ。最速で飛ばす」
「まさか、あの雷に変化して空を飛ぶ走り方? そんなのに幽吹が耐えられるはずがありませんわ」
「……いや、何とか耐えられる」
幽吹はそう言いながら、八房の背中に跨った。
「耐えられたとしても……あなたの霊力が……」
銀竹が心配そうに駆け寄る。
雷と化した八房の移動に耐えるためには、幽吹の霊力を引き換えにする必要がある。
「ちょうどいいわよ。見に行くだけだもの」
どうせ自分が戦う事は無い。それなら霊力を道中いくら消耗しようと構わない。幽吹はそう語った。
「幽吹……御影司は、お前の考えている以上に力を秘めているかも知れない。お前やこの八房がいなくとも、月夜と対等に渡り合う、そんな可能性も考えられる。その時……お前は司の近くにいなくてよいのか?」
八房は幽吹に問いかけた。
幽吹は無言を徹する。
「……幽吹。見るだけじゃ満足いかない、そんなわがままを感じた時に使って下さい」
見かねた銀竹は幽吹に、冷気を発する氷の塊を手渡した。
「……使わないわ。だから要らない」
「持っているだけで構いませんわ」
八房は黒い雷を纏い、走り出す。
銀竹はそれを見送ると、膝から崩れ落ちた。
「銀竹様!」
銀竹の一番弟子、雪女の氷雨が銀竹の体を支える。
「霊力が……まさか幽吹さんに渡したあの氷は……」
「ええ……ワタクシの持てる霊力、その殆どですわ」