お土産とウエスト
柳の木の側で立ちつくしてしまった。
連日飽きもせずに本領を発揮している太陽と、きれいな石畳の歩道はたっぷりと日差しを受け、目玉焼きでも焼けるんじゃないだろうかと思うくらいの熱気を放っていた。たまに来る風も爽やかからは程遠く、まるでオーブントースターのなかにいるようだと思った。立っているだけでじっとりとした汗が背中をつたう。
あまりの暑さにわたしの頭はなにかを考えることを手放してしまったようだ。なにも考えたくない。
帰省ラッシュを避け、お盆の次の週に夫の実家に帰省することにしたわが家。その時に義実家に渡すお土産を探しに銀座に来ていた。
北陸にある義実家には夏と正月、年に2回ほど帰ることになっている。つまり年2回、"東京の"お土産お菓子を探さなけれはならない。お菓子を探したり選ぶ事はとても好きなのだけど、条件に"東京らしい"が入ると途端に難しくなる。東京感があって、できれば東京でしか見かけないようなものがいい。義両親はいじわるを言ったり、そこまで気にするような人ではないのだけれど、新幹線乗り場の前にあるお菓子売り場ではなんとなく済ませたくないのだ。もはや自己満足というか意地。
GINZA SIXと三越のお菓子売り場を巡り、なんとなくピンとこないまま街を歩いていた。あてもなく花椿通りを歩きながら、どうしたものかと考えていたら足も思考も停止してしまったのだった。
とりあえず今日はもう帰ろう、と日比谷の方へ歩き始めた途端、目の前の店から品の良いスーツに身を包んだ白髪の男性が出てきた。店を出てから街に溶け込んでいく様が綺麗でつい見とれながら、喫茶店かな、と看板の文字を読んで「あ。」と声をあげてしまった。「銀座ウエスト」だった。
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戦後、銀座はいち早く復興に尽力を尽くした街であった。活気や自由を求め多くの人が銀座に訪れ、たくさんの商店や飲食店がオープンした。終戦から2年後、昭和22年創業の銀座ウエストも、おそらくそのひとつだったのだろう。
"銀ぶら"という言葉ができたのはもっと前の頃。広辞苑にも載っている言葉だなんて知らなかった。
ショッピングだけではなく、銀座を歩くこと自体をかっこいいと思う人たち、銀座で人と会うことが時代の最先端を行っていると感じる人たちが現れてきます。銀座をぶらぶら歩き回る「銀ぶら」という言葉が出てきたのは大正4、5年(1915~6)頃とのことですが、銀ぶらの語源にはいくつかの説があります。
「銀座をぶらぶら歩く」はもちろんのこと、当時、銀座にいるごろつきや不良といったあまり良くない意味で「銀のブラ」という言葉もあってそれが転じて、特別な目的もなく銀座を散歩することを「銀ぶら」と言うようになった、とか、
オープン当初はレストランだったが条例に伴い喫茶となり、昭和23年からは店内でLPレコードをかけ、文化人が集う店としても知られるようになった銀座ウエスト。「ドライケーキ」と呼ぶ主力商品の焼き菓子は都市開発や時代の流れと共に試行錯誤して作り上げた商品とのこと。東京圏でのみ販売しているドライケーキは、東京土産だけではなく贈答品としても使われることが多いのだそう。
ひかえめだけど上品な包装で、義実家へのお土産はギフトセットを迷わず即決定。脳内で今季のミッションクリアを喜びハイタッチが行われているなか、会計時にレジの横にある個売りのドライケーキから目が離せなくなった。
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お土産を買いに出たつもりがちゃっかりと自分用にも購入したリーフパイ。こんなに有名なのにお初の実食だ。
夫や子どもを見送った後、キッチンでお行儀悪く袋からそのまま食べてしまおうと思ってつまんだ瞬間、あまりの繊細さに「これは”ちゃんと”して食べないと失礼なお菓子だ」と思った。
自分のためだけに珈琲を淹れ、姿勢を正してリーフパイに向き合う。
サクっと噛んでからしゅわわ~っと幾重にもかさなったパイが溶けてなくなる。ぽりぽりと舌に残るザラメがなんともお上品で愛らしい。
知っているようでいて、全く初めての味わいだった。びっくりしてなんども確かめるように味わっていると、いつの間にかリーフパイがお皿から消えてしまっていた。
すっかりウエストの魅力に憑りつかれ、つぎは必ず喫茶室に行こうと意気込んでいます。ウエストの公式twitterも社長自らが発信してらっしゃるというのに驚き...。
なんと現在ラグビーワールドカップに合わせてラグビーリーフパイも販売しているみたい。葉脈ひとつひとつ職人の手によって丁寧に形づくられているリーフパイをラグビーボールにして応援をされているのもとても素敵。
【このお菓子をもっと美味しく食べるなら】
ちゃんとお皿に乗せ、自分のためだけに珈琲もしくは紅茶を淹れて深呼吸してから食べる。至福以外のなにものでもない時間が堪能できるはず。
*Twitterでもお菓子についてつぶやいてます。