見出し画像

鍛冶橋通りのコモンウェルスもしくはロンドン

Gumtree Coffee Company, Tokyo /  Monmouth Coffee Company, London

鍜治橋通りを歩いていて初めてこの店の佇まいを目にした時、あまりにも懐かしく切ない気持ちで胸が一杯になり、思わず歩みを止めて「Gumtree!?」と小さく叫んだ。

Gumtreeは、英国最大のオンラインClassifieds adsだ。売ります買います、フラットメート求む、うちの猫が迷子です等々、日常生活に必須なあらゆる情報を地域コミュニティーの参加者間で交換し、当事者同士で取引する。リバタリアン的思想が社会の底流にある英国らしいシステムだと思う。かつてロンドンで学生生活を送っていた私は、もっぱら売ります買いますを利用し、安い本棚を探したり、使わなくなった教科書を売ったりした。

当時、英ポンドが対ドル、対ユーロ、対円いずれでも異常ともいえる水準に高騰し、私自身も含め、これら通貨圏からの留学生達は、預金残高が怒濤の勢いで減っていくのに戦慄を覚えながらロンドン生活を送っていた。

しかも、ノイローゼに追い込まれるほど過酷な量のアサインメントと試験のプレッシャー。寮の窓が通気用に5センチ程しか開かないのは、飛び降り自殺防止のためだと噂されていた。そんな中、無事学位を手にして卒業するその日まで精神のバランスを正常に保つため、私たち学生は何らか小さな悦楽を、月一回あるいは試験後など、機会を限定して自分に許していた。メキシコ人の血筋を引くオーストラリア人のLはサルサを踊りに行くこと、フランス人のAはワイン、そして私はコーヒーだった。

ロンドンの繁華街の一つ、コヴェントガーデンにMonmouth Coffee Companyという、コーヒー豆の量り売りをしているカフェがある。地元ロンドン出身の友人に連れて行ってもらって以来、この店のコーヒーの味、そして心地の良い店内の雰囲気がすっかり気に入った私は、月1回この店でコーヒー豆を買い、ついでに店内のカフェでカフェラテを一杯飲んだ。

Monmouth Coffee Companyは、単一農園主義を売りにしていて、豆を購入すると決めた各国の農園と生産段階から深く付きあい、どんな農場で誰がどう作っているのか、その過程を含め確認できた豆のみを扱い、英国への輸入にあたっては正当でフェアな取引を行うことをモットーにしている。最近でこそ、Single Origineは日本でも少々コーヒー好きな人なら誰でも知っている言葉になったが、当時は先駆けだった。厳選された豆の品質の良さに加え、焙煎の技術も高い。しかもその焙煎具合は強すぎず柔らかすぎず、私の好みにぴたりと嵌った。その豆で淹れるコーヒーは、過酷な勉強で疲れた私の頭をいつも心地よく覚醒し、癒してくれた。

木の温もりがあるMonmouth Coffee Companyの店内に一歩足を踏み入れると、コーヒーの香りと、店頭に並べられたペストリーの仄かなバターの香りに包まれる。お薦めのコーヒーは黒板にチョークで手書きされている。

画像2

最初の頃は、店員がペーパーフィルターのハンドドリップで淹れてくれるお薦めコーヒーを飲んでいたが、そのハンドドリップの仕方は、英国にしては丁寧だが、青山の大坊や渋谷の羽當の、湯の糸を紡ぐようなハンドドリップを見慣れている私から見ればかなりアバウトだ。ペーパードリップなら自分でも同レベルに淹れられると思い、それからは店で飲むときはいつも、ミルクスチーマーが無いと自分では上手く淹れられないカフェラテにした。

画像2

温もりのある陶器のマグに入ったカフェラテに、ケーンシュガーを少しだけ入れてスプーンでかき混ぜる。立ち上る甘くほろ苦い香り。列車のボックス席のような木のシートに靠れてカフェラテを啜る時間は、本当はこんなところで寛いでいる暇など無いという背徳感と背中合わせに、限りなく深い悦楽を私にもたらしてくれた。

画像3

鍛冶橋通りを歩いていて偶然見つけたカフェ、Gumtreeはの佇まいは、コヴェントガーデンのMonmouth Coffee Companyのそれに瓜二つだった。

黒に近い濃紺のキャノピー。天井から吊り下がるブリティッシュグリーンのランプ。黒板にチョークで手書きされたメニュー。そしてその店名!経済的に苦しかった私の学生生活を支えたサイトGumtree。過酷で、でも楽しかったロンドン学生生活の様々なシーンが一気に脳裏に蘇り、軽いトランス状態を体験した。

Gumtreeの店にはドアは無く、鍛冶橋通りに面して開かれている。カウンターの中では、バリスタの男性が一人できびきびとコーヒーを淹れ、お客をさばいている。
「ね、このお店、ロンドンのカフェをイメージして作ったんですよね?」
私は尋ねたくて仕方がないが、順番待ちしているお客さんが多く話しかけられない。

初めて来たその日は、フレンチプレスで淹れてくれるレギュラーコーヒーを頼んだ。その後、アイスコーヒーやカプチーノ等も試したが、私が一番気に入っているのはカフェラテだ。

画像4

使うのは、カウンターに輝く磨き込まれたマルゾッコ。フィレンツェが生んだこのエスプレッソマシーンの高級機種は、気温や客の好みを見極めて投入するコーヒーの量や密度を調整し、最高のコーヒーを作り出すことができるが、技量のあるバリスタでないと使いこなせない。

カフェラテの注文を受けると、バリスタの男性は、マルゾッコの脇に置いたミルにコーヒー豆を手早く投入する。ミルの回転音とともに挽きたてのコーヒーの香りがカウンターに漂う。エスプレッソが抽出される間、ミルクを測ってマシンに仕掛ける。ノズルからスチームドミルクが滑らかに噴き出し、ステンレスのジャグに盛り上がる。ジャグを手に取ると、ミルクをエスプレッソの上に神経を集中して注ぎ込み、ハートの模様を作り、フタを被せ「お待たせしました」と笑顔で手渡す。この間、約1分。作業行程に無駄が無くリードタイムは短いが、その1分間の動作の中に、一杯の飲み物に心を込めるバリスタの真摯な態度が現れている。

そしてこの、スチームドミルクから立ち上るエスプレッソの鮮やかな香り。圧力が低い家庭用エスプレッソマシーンや素人では絶対に出せない、プロならではのものだ。

朝7時30分、開店と同時に行くと、カウンターの奥の木箱の中には艶やかな焼きたてのパンが並んでいる。クリームパン、メロンパン、オレンジペストリー、ナッツとドライフルーツが入った「レトロ」。どれも素朴でさりげなく、添加物を加えていない清らかな味がする。値段も150円から180円と安い。木箱には、Piemonte、とオレンジ色のステンシルが施されている。これらのパンは、浦安市猫実という可愛い名の街にある、昭和47年創業のピエモンテというパンやさんから早朝に届けられているというのは、後に店員さんから教えてもらったことだ。天然酵母を使ったこれらのパンはどれも、丁寧に淹れられたカフェラテにとても合う。

ある土曜の昼下がり、カフェラテとパンを買って来て遅いブランチにしようと店に出かけて行くと、いつもの木箱に入ったパンが無い。
「あれ、今日は木箱のパン、無いんですか?」尋ねると、店員さんが愉快そうに笑いながら「同じパンですよ」とトレーに並んだポリ袋に入ったパンを指す。ああ、本当だ。

「朝届いたばかりの時は、パンから湯気が出て曇ってしまうので、袋に入れられないんですよ。」なるほど。こうしてポリ袋に包まれると、木箱に並んでいる時より若干生彩を欠いて見えるが、鍛冶橋通りは車両の通行量も多い。ポリ袋に入れるのは、衛生上、極めて正しい顧客への配慮だと思う。

ちょうどお客が少ないタイミングに行き合わせたので、この店はロンドンのカフェをイメージして作ったんですよね、という前から聞きたかった質問をバリスタの男性にしてみた。するとこんな答えが返って来た。
「この店はね、オーストラリアの街角のカフェ、街の人達が気軽に立ち寄るようなカフェをイメージして作ったんです。」家族が長い間オーストラリアで生活しており、自分もオーストラリアに行くようになった。そこで見た街角のカフェのスタイルが気に入って、ここに店を出した。

そう聞いた時、「Rule, Britannia!」の勇ましいメロディーが響いた気がした。私自身これまでに、香港、ロンドン、ニューデリー、上海旧英国租界と、旧大英帝国の本国とその植民地だった街で生活したが、香港や上海でロンドンの路地にそっくりの一角に迷い込み、一瞬自分がどこにいるのか判らなくなる経験をしたり、ロンドンの街並みをそっくりそのまま移植し、熱気と汚れをまぶしつけたようなニューデリーのコンノートプレースに唖然としたりした。南半球のあの大きな島にも、本国そっくりの街角があるのか。少し恐ろしく、英国人のその画一的な行動パターンを思うと、何だか可笑しい。

そんなコモンウェルスの香りがするカフェラテを啜るのは、楽しいひと時だ。こんな素敵な店に東京で出会えて嬉しい。清潔さと開放感のある店構え。一杯ずつ心を込めて淹れるコーヒー。Gumtree 、ゴムの木というその名の通り、鍛冶橋通りの街角を行き過ぎる人々の心を、この店はこれからも惹き付けてやまないだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?