'98年。たった一枚の折り紙で、私の人生を変えてくれた母の話
どうすればいいのかなあと悩んでることがあります。
みなさんは、友達や家族が落ち込んでいるときや苦労しているとき、何をされますか?
なんとかしなきゃと思う反面で、どうすべきなのかわからなかったり。話を聞いたり外に誘ってみたりはできるけれど、結局は時が解決してくれるのを待つしかないのかなと思ったり…
そんな考え事をしていたらふと、そのむかし、私のために母がとった予想外の行動を思い出しました。
自分ができる範囲のことをちょっと工夫してみるだけで、誰かの人生を大きく変えることができるかもしれない。
そんなことを20年前の母に教え直してもらえる気がしたので、ちょっと記憶をたどってみることにしました。
日本生まれ、日本育ちの恥ずかしがり屋。
幼稚園にてパシャリ。
今を知る人からは驚かれますが、この写真、幼少期の私の性格をとてもよく表している一枚です。こんにちはすらまともに言えないくらいとってもシャイで人見知りな子でした。
1998年。そんな私が小学校3年生に入ったころ。
あるとき突然「家族みんなでイギリスに引っ越すことになったぞ」と、告げられます。
父も、母も、小学校一年のわんぱくな弟も、英語なんて微塵もしゃべれません。でも不安を口にする暇もないくらいバタバタと引っ越し準備が進み、気づいたらロンドンに到着していました。
そこからホテルにたどり着くのも、ご飯を注文するのも、生活をするだけでハプニングの連続です。
そして迎えた転校初日。
後から聞いた話だと、父は、日本人学校に入れるべきか、現地校に入れるべきかギリギリまで悩んだそうですが、決死の覚悟で後者を選択。
1学年に30人程度の生徒しかいない、小さな小学校でした。
見てください、このひきつった表情を(笑)
教室に一歩入るだけでもドギマギしているのに、周りを見渡す限り、頼りになりそうな日本人はいない。
どこに座っていいのかもわからない。聞こえてくる会話は雑音にしか聞こえない。チラチラと見られているのが怖くて、下ばかり見つめてしまう。お腹が痛くなって、涙が出そうになるのを必死にこらえる。
何が一番つらいって、みんなが話しかけてくれるということ。
優しさが伝わってくるのに、何を言っているかを理解できなくて、私はその気持ちのキャッチボールを返すことができないのです。
だったら、無視された方がマシなんじゃないか、とすら思えました。
それから二週間もの間。
朝学校に行く前と、夜寝につく前には、先生やクラスメイトの顔が頭に浮かび、悲しみと悔しさとやるせなさで泣きじゃくる。
そんな日々が続きました。
母が、動く。
三週間目に入った、とある日のこと。
登校すると、普段は入り口でバイバイする母親が、教室の中まで入ってきました。
「え、何してるの?」
親が入ってくるのなんて、見たことがありません。でも、なぜだかなかなか帰ってくれません。
私が席に着くと、となりに座る母。
(早く帰ってよ、恥ずかしい…)
嫌がる私をよそに、おもむろにカバンの中から取り出したもの。
それは、一枚の折り紙でした。
私がキョトンとしていると
小学生用のちいさな木の机のうえで、母によって手際よく、四角い紙が少しずつ折られていきました。
そして、折り紙うさぎがカタチを現したそのとき。
パッと視線をあげると、周りのクラスメイトたちがすぐそこまで集まってきていて、目をキラキラ輝かせながら母親の指先に注目していたのです。
そこからはまるでサイレント映画のようでした。
「あなたたちもやる?」というジェスチャーと、「やってみたい!」といううなずきと。一つ一つの手順を見せて真似て手伝って、という流れが自然と生まれました。
しばらくは驚きで動けていなかった私も、一枚折り紙を手にとり、隣にいた金髪の女の子に教え始めました。
そうして、ぶきっちょなうさぎが完成。
できた、よかったぁ、と彼女のことを見上げると、目がパッと合いました。すると彼女は、嬉しそうにクスッと、微笑みかえしてくれたのです。
はじめて、友達ができた…
言葉の通じないクラスメイトと心が通じあった瞬間。
髪の色も目の色も肌の色も違う子たちを友達と呼べるようになった瞬間。
そのときに全身をビビビッと走った衝撃と、じんわり流れた暖かい感情は、忘れられるものではありません。
コミュニケーションを取るには、言葉は要らなかったんだ。
理解しあえないと思っていた「外人」が、
実はおんなじように折り紙を楽しめる「仲間」だったんだ。
瞬く間に、折り紙は学校中で大流行しました。初日は同じクラスの女の子たち。次の日は男の子たちまで。そしてその次は隣のクラス、一つ下の学年…
日本人であることが恥ではなく誇りに
それまでは、私が周りと「違う存在」だということが嫌で嫌で仕方がありませんでした。
でも、日本人だという「違う存在」だからこそ折り紙ができて、そのおかげで友達ができたんです。
クラスのみんなは、私が英語ができないことなんかよりも、OrigamiというCoolな遊びを教えてくれるということに興味をもってくれた。
その時から私はパタリと、泣かなくなったそうです。
みんなそれぞれ、違うんだ…
自分だけが違うんだという考え方を捨てると、あることに気づきました。
「外れ値」は、私だけじゃなかったんです。
当時書いた詩を、先日祖母が掘り起こしてくれました。
何を思いながら書いたのかはまったく覚えていませんが、
最初は「外人」とひとくくりにしていたクラスメイトのことを、一人ひとりの「個性的な友達」として捉えなおしていたからこそ書けたんだろうと思います。
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20年越しに聞いた、母の葛藤と勇気
あの時、母はどうして折り紙をもって教室に入って来たのか。
先日ふと、その時の心境を聞いてみました。
そうすると意外な答えが。
「それ以外に思いつかなかったのよ(笑)」
毎朝毎晩大泣きする娘のために何ができるか。
自分だって英語はできないけれど、やれることはないのか。
話を聞いてあげるだけでも良かったかもしれないし、時間が経てばいつかは慣れていたでしょう。けれど、きっと、それではいてもたってもいられなかったんだろうと思います。
そんな中、「折り紙だったら私でもできる」とひらめいた。
うまくいくかどうかなんて全然わからないけど、ほかにアイデアもないから、とりあえずやってみよう、と。
「あのとき、一応、担任の先生に、教室に入ってもいいかどうか確認取ったんだよ」と、母。
「え、英語で話したの?なんて言ったの?」と尋ねると、
「覚えてない・・・どうやって伝えたんだろうね」と笑った。
いつか私に子どもができたときには、あの時の母のように、
ねじが抜けているんじゃないかと疑うくらいの勇気と、深い愛情と、行動力のある存在でいたいなと、思った瞬間でした。
母が忘れられない光景
通称「折り紙事件」から数週間が経ったとき。
上記の詩にも登場する「うさぎを飼っているアグネス」のお家に誘ってもらいました。
リビングルームに入ると、小さなハウスのなかで、ペットのうさぎがお昼寝をしていました。そして、
"Look!"
アグネスが嬉しそうに披露してくれたのは、その横においてある箱の中。
それは、折り紙で折られた色とりどりのうさぎとお花が並ぶ、Origami Rabbitsのためのハウスだったのです。
「あれは本当に驚いたよね」と母は懐かしそうに振り返っていました。
私にとっての「指針」
どうにかしなきゃ。
なんとかしたい。
私はそんな壁にぶちあたった時、あの時母が取り出した「1枚の折り紙」を思い浮かべるようにしています。
まわりが想像していないようなこと。
勇気がいるんだけれど、やってみれば案外簡単にできちゃうこと。
頭で考えたら絶対に出てこないし、もしかしたら笑われるかもしれないようなこと。
頭と心をやわらかくすることで、「とにかくやってみるか!」と思えるアイデアに出会えるのかもしれません。
さあ、私も、悩みとちゃんと、向き合ってみようと思います。
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おまけ)
この写真にうつっているのが、アグネス。
思えば、折り紙の次に私が見つけた"武器"は、一輪車でした。日本の女子小学生はみんな当たり前に乗りこなしていましたが、イギリスでは天才児とはやし立てられるほど、珍しかったのです。
こうして少しずつ自信をつけることができたイギリス生活を経て、内向的で慎重な性格もいつのまにか180度かわってしまいました。
今のあまりにおおざっぱでためらいのない私をみていて、
「昔の頃の性格、少しは残しておくべきだったわね」
と母に呆れられます…