【小説】 曖昧スリープタイム
......冷たい。
一瞬思考が止まる。
ああ、私は水に濡れたんだ。
そんなことに気が付いたのは、一呼吸ついてからだった。
多量の水が突然目の前から降ってきた。
こういう時、映画だったらスローモーションになるんだろうな。なんてぼんやり考えてながら制服を絞っていると、声をかけられた。
「あ、あの!ごめんなさい...!」
顔を上げれば、黒髪が眩しい美少女がこぼれそうなくらい目を見開いて、心配そうに見つめていた。リスみたいな表情がセーラー服によくお似合いで。見ればバケツを抱えている。
バケツの水ひっくり返すなんてどんなおっちょこちょいなんだ、と呆れて笑ってしまう。
「え...?」
突然笑い始めた私に困惑しながらも、リスちゃんもつられて少し笑顔になる。
彼女が大切そうに抱え込んでいる青色のバケツはさぞかし軽くなったことだろう。
散った桜の花びらが彼女の頭についているのを見て、どこまでも漫画みたいな子だと思った。
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出来立てのパンの匂いにはっとする。
遠くから近所の子供たちの笑い声が聞こえる。
時計を見たら半刻経っていた。
じんわりと汗ばむほどの陽の光に誘われていたらしい。
10年も前の夢を見るなんていつぶりだろう。
懐かしいな、と呟き立ち上がる。
のそのそとキッチンへ向かい、オーブンを開けると、
ぷくぷくと膨らんだパンが芳ばしい香りを醸し出していた。
こんな休みを毎週過ごしたい。
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月曜日。毎週この日が来るたびになんだか後悔している気がする。昨日早く寝れば、気持ち良い1日になっていたのだろうか。
「西門さん、ちょっと来て」
上司に呼ばれ、はいと答えながら机の下でもぞもぞとスリッパからヒールへと履き替える。
よろよろと上司の席に向かうと、呆れた顔で話しかけてくる。
「なんだよ、ご機嫌斜めか?」
いつもの調子で通常運転ですとカラカラと笑い飛ばす。
「ならいいんだけど。この企画書だけどさ」
説明をどこか上の空で聞きながら、ぼうっと思う。
こんな大人で良かったんだっけ。
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青いバケツを抱えたリスちゃんは、
隣のクラスの青石さんと言うらしい。
放課後のがらんとした教室に2人きり。
うち1人はドライヤーで制服を乾かしている光景がなんともシュールだ。
「西門さん、転校生なんだね」
乾かすがてら、身の上話をしていると、
教室に青石さんと同じクラスの子が入ってきた。
「あれ、ミツキじゃん。どうしたのー?」
「サヤカ、残ってたんだね。西門さんに水かけちゃって。」
「わ、ほんとだ。西門さん濡れてるね。大丈夫?」
控えめに笑いながら乾かし続ける。
「そういえばミツキ、職員室にミツキの筆箱届いてたよ」
「え、ほんと?いつ忘れたんだろう。西門さん、ちょっと行ってきていい?」
もちろんと回答するや否や、いってきます!と走り出す姿を見送る。
とてとてという効果音が似合う走り方は、危なかっしくて、無傷で帰ってくるかすら心配になる。
ズズーっと椅子を引きずりながらサヤカと呼ばれたその子は私の前に座り込む。
「西門さん、災難だったね。水かけられることなんてなかなかなくない?」
よく不憫と言われるのだと伝えれば、サヤカは嬉しそうな顔に輝く。
「不憫?どうゆうこと??」
前の学校で、
授業中に携帯を鳴らした人の代わりに自分の携帯が没収されたことやスカートを巻き込んでいることに気がつかずに歩いていたことを伝える。
正直営業ネタくらい擦ったトークテーマなので自信がある。
サヤカは椅子に跨った姿勢で私の机に頬を乗せてご機嫌だ。
「へ〜!西門さんっておもしろいね。あ、下の名前なんて言うの?サキカ?サヤカとサキカ名前似てるね!じゃあさっちゃんって呼ぶわ!」
さっちゃんなんて呼ばれたことないなと思っていれば間髪いれずに彼女は話し続ける。
「てかさ、さっちゃん。」
突然サヤカは声を潜めて眉をひそめながら話しかけてくる。
正直ドライヤーに掻き消されるのだから小声にされると聞きにくくて堪らない。
「転校してきたばっかりだと思うから、一応ね。ミツキと一緒にいると、あまり良くない噂立てられるから気をつけて」
ほう?と思いドライヤーを止める。
丁度鳴りはじめたチャイムにサヤカは表情を崩さずに続ける。
「私はね、嫌いじゃないんだけど。おっとりしているというか、なんか鼻につくのかなあ。うちのクラスのリーダーがミツキ無理らしくて。」
表情を変えずに話を聞く私に焦ったのか、
サヤカは突然早口になる。
「ほら、ミツキの親御さんシングルファザーだし、私たちとは違う環境で育ってきてるからなのかも」
沸沸とした思いをこらえ、曖昧に笑って話を流すと、
笑った顔に安堵したのかサヤカはまた調子を取り戻したようにペラペラと話しだす。
「西門さんはBクラス?Bクラスは担任が関川か〜。掃除細かすぎない?」
「Bクラスはユキとミチコの2派閥なイメージだけどどうなの?」
「アカリって男子校ハンターって呼ばれてて」
ドライヤーを再開した私は、適当に相槌を打ちながらやり過ごす。
今度から特技は心地よい相槌と自称してもいいかもしれない。相槌芸人として生きて行こうか。
制服がようやく乾きかけた頃、青石さんが戻ってきた。
「ただいま〜」
サヤカが立ち上がって迎えている。
「おかえり。ミツキ遅かったね」
「職員室で堀之内先生に捕まっちゃって」
「うわ、災難。てかもう16時半?塾の時間だ〜帰るね。」
サヤカは青石さんと私に手を振り、小走りで去っていく。
いわゆる女子高生のような軽やかさな後ろ姿を見送る。きっと彼女は転ばず器用に駆けていく。
「西門さん、サヤカとは初めまして?さやかってね、字がとっても綺麗なの」
綺麗に足を揃えて横向きに椅子に座り私の方を見て微笑む彼女の純朴さに癒されながら、私はドライヤーの電源を切る。
「青石さん、乾いたよ。帰ろう?」
転校してきて初めて、友達が出来た。
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セーラー服のスカートを折って、靴下をソックタッチで留めて。
鞄には可愛いマスコット。
化粧はまだ分からなくて、色付きリップで可愛くなる気がしてた、そんな時代。
教育実習生の先生はどこからどう見ても大人で、大学生だなんて思いもしなかった。
どの大学に行こう、どの学部にしよう。
そんな選択ですら決めきれなかった私にとって、大人には漠然とした完璧さをイメージしていた。
仲良く見える女の子達が
いつしか仲良く振る舞っている女の子に見え始めたのはいつからだったろうか。
皆あんなに仲良さそうだったのに、学校を卒業してから会い続けているのはみんな一握りの友人とだけ。
あの日サヤカに言われたように、直接は言わない言葉を人を通して聞くたびに、私は曖昧に笑い続けた。
今ならわかる。
私は誤魔化すことで、
回答を先送りしていたんだと。
10年前、
曖昧に笑って誤魔化したことも、
大人になったら変わると思っていた。
こんな会話すら無くなるものかと思っていた。
返答も上手くなっていると思っていた。
あの時と何か変わったのだろうか。
あの感情にいま名前をつけるなら。
" 曖昧スリープタイム "
私はいまも、すっきり目覚める方法を探している。