腹蔵なく話そう
久しぶりの友人と長話。
どれくらい久しぶりなのかとお互いで頭をひねったものの、どう考えても10年くらいは経っている計算(しかもその間、電話もメールもほとんどなし)。しかし10年経っても関係性は全く変わらず、言いたいこと言い合ってしゃべり倒してきました。
私は大学のときにいろんな大学の人が集まるサークル、いわゆるインカレサークルに入っていました。この友人は大学は別なのですがそのサークルが一緒の同級生で、つまりは大学1年の頃からの付き合いということになります。
学生のときも喫茶店に入って長時間しゃべり倒したものですが、当時はお金がなくて、喫茶店に入ってもケーキを頼まずコーヒー一杯で粘ったものでした(迷惑な客である)。今は多少の小銭が出来たので、ちゃんとお店にも貢献できますのよ、ほほほほほ。
この友人は国公立の研究機関に勤務していて、研究分野は私とは全く違います。なのになぜか似たようなことを考えていて「わかるーーーー!」と大盛り上がりしてしまいました。職場は違えど、悩みとか困ることとか妙に共通してたんですよ。
年齢が上がってきて自分よりも下の人が増えてきて、年下の人の言動に対して「それって違うんじゃないのかな」と思うことがしばしばあります。でも「違う」のは相手なのか、いや実は時代の変化を認識できていない自分なのか。毎回問い続けているけれども結局わからず毎回悩む、という話など、お互い膝を打つような感じでした。
あるいは仕事-家の往復だけの毎日にはしたくなくて、仕事以外の自分の楽しみをどう見つけるのか、という話。
好奇心はあってこういうことしたいなあと思ってはいる。でも現実として仕事は依然としてたくさんあるわけで、目の前の仕事を片付けているだけで一日が終わってしまって「マズいなあ」と痛感している、とか。
研究機関でも大学でも、研究以外のさまざまなこまごまとしか仕事はたくさんあって、みんなやりたがらないけどでも誰かがやらないといけない。でもそういうのは業績にもならないし評価もされない。「自分が研究者であってそんなことはやりたくない」というプライドを持つ人がたまに「こんなところ辞めてやる」と本当に辞職してしまうけれども、それってある意味自決だよね、とか。
50代になると退職までの時間もある程度意識しないといけないけれど、社会人でいる間にあと何が出来るのか、あるいは何をしなくてはならないのか、どう社会に貢献すべきなのか考える、とか。
…とまあ、数時間ひたすらしゃべり続けました。夕方にこれから別のところに行くという友人を見送って、疲れたというよりは、なんだかすごくスッキリしました。
腹蔵なく話をする、というのは精神衛生にもいいのかもね(しかし今の大学生は「腹蔵なく」という意味はわかるのだろうか)。