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論文を読んで視界が開ける瞬間

あれは、大学2年だったか3年だったか。

授業で突然先生が「紅葉の赤い色素量を調べるにはどんな実験をしたらよいか、という試験が出たらどう答えるか」という話を始めました。

なんでそんな話になったのかはさっぱり覚えていないのですが、当時は植物の色素はもちろん、定量についても全く知識がなかったので(今もか)、「突然そんな試験出たら困るだろうな」と思った記憶があるんですよ。

先生がそのあとで「○○とか××とか、いろいろ方法はあるけれども、みんなそんな方法なんて知らないと思います。知らないのにいい加減な方法で実験をしてもうまくいくわけがありません。ですからこの場合の答えは『図書館に行って文献を調べる』が最も正しいです。」

…と言うのでガクッとしました。というか「え、そんなこと?」と内心でツッコんだというか。

なぜこれを今でも覚えているかというとですね。「過去の文献を当たる」って、「そんなこと」どころか、かなり大事だと思うんですよ。

私が学術論文(英語で書かれたもの)に初めて触れたのは学部4年のときで、渡された論文のタイトルすらわかりませんでした。ほぼすべての単語を辞書で調べて書き込んだものの、それをつなげてもサッパリ意味がわからず途方に暮れたものでした。

修士時代も論文を読むのは一苦労でした。ゼミで当たったら「あーあ」と思いながら徹夜して読んでいたくらい。当然理解度も乏しいのでゼミで怒鳴られまくってよく泣いたものです(ハラスメントという概念がなかったころね)。

自発的に論文を読むようになったのは博士課程になってからで、読めるようになってくると読むのが楽しくなってくるし、むしろ知りたくなってきます。この研究はどんな背景があるのかと調べれば調べるほどどんどん過去にさかのぼっていって、さらにたまたま私が博士課程を過ごした大学は日本でも指折りの蔵書数を誇るところだったので、古い文献でも入手可能だったんですよね。そんなわけでしょっちゅう図書館に入り浸っていましたから、司書さんにもずいぶんかわいがっていただきましたねえ。

そうやって研究の歴史がわかってみるとふと霧が晴れたように視界が開けるような瞬間があって、そうかだからこれが大事なんだなと突然腑に落ちる、という体験もよくありました。

今の私の「ゼミ」では学部生を対象とした論文講読をしていますが、やはり学部生だとそういう「視界が開ける」みたいな感覚は得られないみたいです。英語の文献を読むという意味では、今は翻訳ツールが発達しているのでハードルが下がっていると思うのですが、言語の問題ではないのですね。やはり実験と論文読解とは両輪で進めないとうまくいかないのかなー、と今日は紅葉しつつある葉を眺めながら思ったりしておりました。