教員採用の基準その2 時代によって変わること
教員採用の基準って「そのときそのとき」の時代の流れでいろいろ振れていますよね。
その昔(50年くらい前?)は、優秀な成績の極めて少数の学生が大学院に進学して、その中でさらに優秀な学生が博士課程の途中で助手に採用されて、そこでコツコツ論文をためて学位を取って、あとは上の人たち(教授)の退官とともに一つずつ上がっていく、というイメージでした。そもそも大学院の数も少なかったので、タイミングが合わずその研究室でポストがなくても、別の大学であれば教員になれたというわけ。ただこのシステムの場合、上にいる先生の「お気に入り」が声を掛けられることになるので、必ずしも能力とは一致しなかったようです。
それが変わるきっかけになったのは、「黄色い砂事件」ですかね(この事件を知ってる大学関係者はもう少ないのでは)。
評価基準の「モノサシ」が曖昧だからこういうことになる、という流れになったんでしょう。それで、ナァナァで人事が行われないように「卒業生からは採らない」「第三者的な冷静な目で見て業績を基準にして選ぶ」という時代が一時期ありました。といってももちろん面接はあったわけで、そこでは弁舌さわやかな人が有利になりました。
で、これは私のまあまあ身近で起きた出来事なんですけど、その「業績がたくさんあって弁舌さわやかな人」が、いろいろトラブルを起こしたんですよ。新聞沙汰にもなるくらい。
そんなこんなで揺り戻しが起こって、「業績がどんなに素晴らしくても、最後はやっぱり人間性だよね」と、そのあとの一時期は積極的に卒業生が採用されたというケースがありました(学生のときから知っているわけだから、その人がどんな人かはみんな知っているので)。
昨日も書きましたが、今は「稼ぐ力」が重視されていて、この流れはしばらくは続くと思います。でもまたしばらくしたらトレンドが緩やかに置き換わってくるような気がするんですよね。特に私立大学は定員割れという死活問題が起こっているので、研究力でも人間性でもなく、高校生を引き付けるような「客寄せパンダ」になりうる「知名度」が重要視されることになるかもしれません。
私も今から何か、世の中をあっと言わせるようなことを探すか…(今のところ思いつかない)。