ワンオーダー 〜キャッシュがないと戦えないヒーローとそれを支えるボクの話〜_4
ゲロを吐く女性をまじまじと目の当たりにしたのは、その時が人生初だったかもしれない。
というより、あんな大惨事に巻き込まれたことも人生初めてだったし、目の前であっけなく人命が失われて行く様を見たのも人生初だったし、女の子が怪物と戦っている姿を目撃するのも人生初だった。
今夜の出来事は、全てが人生初だった。
ボクはとりあえず、苦しそうにうずくまっている壇ノ浦さんの背中をさする。ややあって壇ノ浦さんは一通り吐き出したのか、ほっと息をついた。
「……大丈夫ですか?」
「……うん」
壇ノ浦さんは立ち上がった。
「何が、どうなってるんですか? あなたは、何者なんですか?」
壇ノ浦さんは困ったように目を逸らした。答えに窮しているようだ。
「そうね、何から話せばいいのかな……」
「あと、何で関西弁じゃなくなってるんですか!?」
「……私、関西弁出てた?」
「がっつり出てましたよ! 逆に何で今標準語やねん!」
「あー、その感じイラっとくるわ」
「やっぱり、下手な関西弁を聞くとイライラするということから考えると、あなた、根は関西人なんじゃ……」
「そんなことは、今どうでもいいでしょう」
確かに。
「関西人だろうが、東京シティガールだろうが、道産子だろうが、何も関係ないのよ、この戦いには」
「すみません、ちょっとパニクってて」
「無理もないわ。あなたは関わらない方がいい。今日のことは忘れて……って言っても忘れられないでしょうけど、出来るだけ普通の暮らしに戻った方がいいわ」
「普通の暮らし……」
自分がいわゆる『普通の暮らし』の中にいるという感覚など、つい数日前までは抱いたことも無かったのに。
「普通の暮らしになんて、戻れるわけないじゃないですか」
目の前で友達を殺され、阿鼻叫喚の地獄を見てしまった今となっては、日常が遠い昔のように感じる。
「だいたい、いつまたあんな怪物がいつ現れるかも分からないのに、普通の暮らしに戻りなさいって言われて、そんな割り切って戻れないですよ」
「……それもそうね」
壇ノ浦さんは目を伏せる。
「あの怪物の話からしましょうか。でもごめんなさい、実は私も奴らの正体は知らないの。でも奴らはこう呼ばれている。『Evil demand』」
「えーぼーでまんど……」
首を振る壇ノ浦さん。
「『Evil demand』」
「いーぼーでまんど」
壇ノ浦さんは、口を大きく開けて、再び発音する。
「Repeat after me.『Evil demand』」
「いーぼーでぃまんど」
まるで英会話教師と生徒のようである。壇ノ浦さんは、自分の口を指差す。
「Evil」
「いーびる」
「Demand」
「でぃめんど」
「Evil demand」
「いーびるでぃめんど」
「……まあ、そんなところね」
ボクの発音能力にさじを投げたようだ。
「彼らは、数年前、突然現れ、人々を襲い始めたの。混乱を防ぐため、これまで秘密裏に処理されてきたのだけど」
「今回の事件は、隠し通せないんじゃ」
「そうね、ここまで大規模な襲撃は前代未聞だと思う。さすがに隠し通すのは難しいでしょうね。きっと、何か大きな動きがあるはずよ」
何か大きな動きって、ざっくりしすぎではなかろうか。まあ、それはいい。壇ノ浦さんも状況があまり分かっていないのだと分かった。
「そんな正体不明の怪物と戦ってる壇ノ浦さんって」
壇ノ浦さんは、真っすぐボクの目を見て、こう言った。
「私はK.A.SHAだから……」
「けーえーしゃ?」
「そう。『Knight Arms Shadow』。略してK.A.SHA。人々を襲う危険な怪物『Evil demand』と、気が向いた時に戦う影のヒーローなのよ」
そう言って、壇ノ浦さんはキメ顔をした。
中々サマになっている。
しかし、そんなことはどうでもいい。
「気が向いた時ってどういうことですか?」
是非、24時間態勢でやって欲しいものである。
「戦うには条件が必要なのよ。あんな鎧を装着して、剣を持って、ただで済むと思ってるの?」
「ただでは済まないって、どんなリスクがあるんですか?」
何故、こんな分かり切ったことが分からないのかと、うんざりした表情を壇ノ浦さんは浮かべる。おもむろに再度口を開く。
「ただでは済まないってことは」
「済まないってことは」
「無料じゃないってことよ」
「はあ、そうすか」
壇ノ浦さんはボクの理解度の遅さに、苛立って来たようである。声を荒らげてこう言い放った。
「いい? 変身するにも、戦うにも金が掛かるのよ!」
所持金82円のボクの心を、冬の夜風が吹き抜けて行った。