大好きな横浜。
山手西洋館巡りも4回目となった。
そろそろ、終わりに近づいてきた。
猛烈に暑いが、頑張ってコンプリートしようじゃないか!
これまでの記事はこちら。
訪問日:2024年7月4日
詳しくは下記を参照ください。
いやー、歩いた、歩いた。
炎天下の中、20分近く歩いただろうか。
入室すると、ガイドの方が懇切丁寧に1時間近く案内して頂いた。
大変ありがたい。
日本でのテニス発祥の話だけでなく、そもそものテニスの歴史も学べますよ。
🔷テニスの起源
🔷国歌「君が代」の起源
さあ~て、ガイドの方に大変長い時間お世話になってしまった。
お礼を言って、最終地68番館は目の前なので足元軽やかに歩を進めます。
いやはや、それにしても実によく歩いた。😝
横浜山手西洋館を歩く(其の肆)はこれにて終了です。
はてさて、
横浜市緑の協会のサイトに掲載される9館はこれで全て周りきることが出来ました。
因みに全館無料開放されていますし、期間によってはイベントも開催されていますので、是非時間作って歩かれることお薦めします。
今回は、山手イタリア庭園に出向いたのを端緒としてぐるっと周ってみました。
ガイドの方の説明によると、横浜という土地は敷地面積が限られていたこともあって、現在の関内周辺は埋め立てて造られた土地であるということを初めて知りました。
『関内』という地名も横浜開港 (安政6年、1859年) の翌年、幕府によって堀割 (現在のJR根岸線沿いの首都 高速地下部分) が設けられ、堀が囲む地域を「関内」、その 外側を「関外」と呼んだこと に由来するそうです。
移住してきた西洋人に土地を占拠され、そこで彼等は優雅な暮らしをしていたと認識しておりましたが、それは全く大きな間違いであることがわかりました。
実は西洋人は関外、中でも山手の地域に、言い方悪いけれど、封じ込め隔離したというのが真相のようです。
長きにわたる尊王攘夷運動、そしてペリーによって開港直後のことでしょうから、見慣れない西洋人に対する偏見や脅威といった民衆意識はかなり高いものがあったでしょうし、対応した行政機関もこうするしかなかったのでしょうね。
関東大震災前は、50余の西洋館がこの横浜山手には存在したようだ。
しかしながら、震災で倒壊した建物が多く、現存し公開されているのは巡った9館ですが、非公開の西洋館がそれ以外にも10館現存しておりますので、列記だけしておきます。
ご興味ある方はこちらにも足を向けてみてください。
1、横浜山手214号館(旧スェーデン領事公邸)
2、横浜共立学園本校舎
3、カトリック横浜司教館
4、カトリック横浜司教別館
5、カトリック山手教会聖堂
6、フェリス女学院中高等部1号館
7、岡田邸
8、山手資料館
9、山手聖公会
10、フランス領事官邸建築遺構
こちらにもいずれ散策してみたいと思っております。
西洋館は、横浜だけでなく神戸、長崎にも残されていますし、実は開港が一番早かった函館にも建物や街並みが残されているようです。
個人的には、函館だけ訪れたことがないので、行ってみたいですね。
今回のシリーズでは、其の壱記載の山手イタリア庭園の『外交官の家』、其の参記載の『ベーリックホール』がお薦めワン、ツーといったところでしょうか。
長い記事にお付き合い頂きまして、ありがとうございました。
#一度はいきたいあの場所 #横浜山手西洋館#日本テニス発祥の地#テニス#君が代#国歌