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【5連投稿最終回】大学生活を変えたのはいつも哲学だった

皆さんが大学受験時に一番頑張った科目は何ですか?英語とかですか?

ちなみに自分は倫理です。

センター試験で一番ショックだったのは倫理が満点でなかったことです。

そもそも高校で倫理の授業を受けてなかった人もいるぐらい軽視されがちな科目ですが、正直倫理だけやればいいのではと思うぐらいです(理系💦笑)

自分の成長を高校1年生から加速させたのは間違えなく倫理のおかげです。
コーチングまがいの自分の説法もおそらく哲学の仕業です。
今回はそんな魅力的な哲学の世界に皆さんをお連れしたいと思います。


【序章】自己啓発本と哲学書は何が違うんですか??

当然ですが、著者の目的がそもそも違います。
(そもそも学問のジャンルも違いますが…)

自己啓発本は当然売れるように書いてあります。
読者の心理状態を設計して書いてあるし、表現も分かりやすく読みやすいです。

一方で哲学書は不親切の極みです。
何が書いてあるか初見じゃ分かりません。分かってもらおうと思って書いてないです。

でも、だからこそ哲学書も読むべきだと思います。
自分にとって飲み込みやすく都合のいい情報ばかり掴んでいては本当の意味での新たな発見はありません。Googleの確証バイアスみたいなものですね。

生きてきた時代が違う、生きてきた場所も違う偉人たちの言葉は、自らの多様性を拡大させる最もシンプルな方法です。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とも言いますもんね。


【第一章】 老子 「上善は水の如し」

意識高く色々なことに取り組み、周りより優れていると感じるあなたにこそ届けたい言葉。

自分も周囲からの評価に溺れ、頂点に登り詰めることが目的になっていた。
肩書きにしがみつき、好きなことも捨てて、ただ上へ上へ、意味もなく途方もない上を目指していた。

そんな時に知った中国諸子百家の一人である老子の言葉は衝撃的でした。

「上善は水の如し(柔らかく弱く、へりくだって水のように生きよ)」

最も理想的な生き方は水のようなもの(柔弱謙下)である。
他に恵みを与えながら(Give)、人の嫌がる下へと流れていく生き方。
受け身でも柔軟さ故に人を動かすような力強さを秘めた生き方。
たくましさとしなやかさを兼ね備えたような生き方。

「奢れる者は久からず」と平家物語にもありますが、まさにこの柔弱謙下の思想を表しています。
名声や肩書きに執着する者は没落する。
それは硬く傲慢な、水と正反対の生き方をしているからである。


結論:「柔軟な姿勢の持ち主が一番強い」
威張って自分を大きく見せたところで自分の見える世界が狭まるだけです。
何事も選り好みせず、常に新たな世界に対して謙虚に初心者を全うすることだけが自分の新たな道を切り開くように感じます。

【第二章】 ハイデガー 「死を自覚できなければ生きていることすら実感できない」


「いつかやればいいや」と言うのは辞めにしました。

ハイデガーの思想は哲学の世界でも群を抜いて難しく、著書『存在と時間』は初見で何を言っているかほとんど分かりませんでした。
今もよく分かってないし、自分も途中で諦めて解説書を読みました(笑)

師匠フッサールの現象学(バイアスを消し去り対象のみに着目)の逆を行ったハイデガーは「人間が世界においてどのように存在しているかがまず考えるべき要素」と断定しました。

私たちは当然のごとく自分の目に見えるものを全てと捉えがちだけど、見えているものには自分というフィルターがかかっている。
だからこそまずはそのフィルターについて知らなければならない。

ただし自分のフィルターは今までの全ての経験から導かれるものであり、生まれてから死ぬまでの一生を通じてしか分からない。
死んでしまっては自分では確認できない。
そこでハイデガーは「常に死を意識すれば死んだつもりになれる」という突拍子のない方法に至りました。
「明日死んでも後悔のない人生を」という考え方はまさにこれに基づくものでしょう。


結論:「終わりを認識する。終わりを受け止める。」

人生においては生死以外にも始まりと終わりが無数に存在します。
卒業、別れ、今までの自分からの卒業、全て先延ばしにすることは簡単だが、自らで終わりを決めなければ永劫回帰に溺れていく。
終わりを決めて一度振り返ってみましょう。
「このまま最期の日を迎えても後悔はないか?」
自分に問い掛けてみてください。


【第三章】マイケル=サンデル 「正義には答えはないが考えなくていいものではない」

正解を求めようとしすぎるあなたに。
考えることを辞めてしまったあなたに。

コミュニタリアニズムの代表格とも言われるマイケル=サンデルは著書『これからの「正義」の話をしよう』で正義について議論をしますが、実際には「正義=◯◯」と断定できないことを明らかにします。

本来人によって善は異なる、そうであるのに関わらず人は共通善(一般的な正解)を求めようとする。

ただし、「正解がないなら正義のことなんか考えなくていい」と言うわけではありません。
「正義について考える」その過程自体が目的であって良いのです。

正義と正義の衝突が乱立する現代だからこそ、正義について考え続ける人たちは考え方は違えど敵ではなく同士だと思って欲しい。
多様な正義が存在する現代だからこそ、他人の正義から自分の正義をアップデートして欲しい。

正義について考える道は果てしなく、生涯かけて歩み続ける道です。

マイケル=サンデルの講義はNHKの「白熱教室」という番組でも報道され、一時話題を呼んだので、是非Youtubeなどで見てください!

結論:「正解がないからこそ正義は考え続ける価値がある」

何のために自分は生きるのか?
  - 自分にとってそれは正義の色(多様性)を増やすためです。

赤色の正義も青色の正義も誰かにとっての正解。
だからこそ色々な人と分かり合うために自分は自分自身の中にある色の数を増やすのです。

【第四章】オルテガ 「迷える者こそ賢者である。愚者は迷わない。

最近では「意識高い系」とそうでない学生との二項対立のように言い表されますが、これに反してオルテガは人間を「大衆」と「高貴の人」とに分けました。

この解釈が非常に難しいのですが、この分類は何も貴賎で人を分けたのではなく、「内省・生きる上での努力」で人を分けているのです。


「大衆人(平均人)」: 自らを疑うことせず、常に自らが正しいと愚かさの中に安住してしまっている人間。生の現実を直視することなく虚構の思想(目標)で現実の問題を覆い隠す。自らの凡庸を主張し、それを他人にも押し付け、大衆でないものを忌み嫌う存在である。

「高貴の人」: 内的自律を自発的に求め、努力する生を生きる人間。奉仕の生を生きるため義務を常に伴う彼らは、奉仕の必要性がなくなろうとも自ら困難な規範を己に課す。生の現実を直視して、問題を認め、自らが迷える者であることを自覚する。


話がややこしいですが、「何も考えていない人」も「意識高い系」も自らを疑わず人に自らを押し付けるという点では同じ大衆人です。
一方で、「意識高い系」に含まれがちではあるが、ただ純粋に努力して生を生きる人は「意識高い系」ではないことを証明していますね。

オルテガが問題にしたのは、お互いを理解し合うことが難しい「大衆人」と「高貴の人」が対話をするときに、いかにお互いが思考停止にならずに対話を継続させることができるかという点。

有名ブロガーのはあちゅうさんなどが炎上で傷つく現状を見ると、まだ対話がなされる段階にも至っていない気がしています。


結論:「Let's think.」

最近巷で話題の「3年A組」というドラマにハマっているのですが、毎回このドラマでは教師役の菅田将暉が生徒たちに難題を貸して困らせます。
その時のお決まりのセリフが「Let's think.」

このドラマもSNSなどを引き合いに上げ、大衆人になるなという強いメッセージを発しているように感じます。
考えたくないことを自分の頭で最後まで考えろと。

ドラマ以外にも「ペルソナ5」「ダンガンロンパV3」など大衆との戦いを描いたゲームも多数存在するので、是非遊んでみてください!

【第五章】ソクラテス 「本当に深い『無知の知』」

皆さんもおそらく一度はその名前を耳にしたことがあるほど、有名な哲学者だと思います。

特に有名な言葉である「無知の知」は、その言葉の通り「自らが無知であることを知っているだけまだ知恵がある」ことを表した言葉です。

ソクラテスは問答法(反論:エレンコス)を用いて周りの人々の「無知の知」を明らかにしていきましたが、これは自らが優れていることを示すものではなく、無知の知を伝えることが自らの使命だと思っていたから。
まさにGiveの精神に基づくお節介です。


現代でも「無知の知」は自責を通じてメタ認知へと結びつける重要なステップの一つとして注目されていますが、真髄はそこじゃない。

「無知の知」の本質は、「自らの損得を顧みず、相手のために無知を指摘してあげること」だと自分は考えています。



結論:「知らないから次がある」

全てを「知っている」で一蹴してしまってはそれで終わり。
それ以上の学びはありません。
いくら知っても深層まで知らないのが世の真理。
知らないからこそワクワクするのではないのでしょうか。


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