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024 『ワグネル旭焼 復元実験』の刊行について

京都市立芸術大学美術学部総合芸術学科畑中研究室の調査研究報告のシリーズ18として『ワグネル旭焼 復元実験』を刊行いたしました。

一般にはあまり馴染みのない人名と焼物の名前。
ワグネル先生(ゴッドフリート・ワグネル)とは、明治期日本の窯業や博覧会において多大なる影響を与えた人物で、旭焼とは彼が主宰した焼物で海外輸出を主としてつくり出されたものです。ただ、ワグネル先生の事績については没後かなり時間が経過してから門下の人たちによって回想されたものが大半であることと、代表的な製品である旭焼が海外向けに作られていたこともあって日本にはほぼ残されていないのが現状で、「ワグネル先生のお陰で近代窯業が発展した」と言いつつも具体的な内容があまりよくわからないのが現状です。

2017年度、信楽焼の民俗文化財調査に参画していた私は、信楽窯業技術試験場の所蔵品を調査していました。基本的には信楽焼を対象にしていたのですが、所蔵品の中に一定量の信楽焼ではない参考資料があることを知ります。どうやら京都の陶磁器試験場が引っ越しをする際に頂いてきたものだというもので、その中に旭焼のタイルが30組ほどあったのです。伊藤公一さんと宮本ルリ子さんのご努力もあって整然と整理されており、「こんなタイルがあるのか〜!これがワグネル先生の旭焼なのか〜!」と驚きを隠せませんでした。
そこで、本来の仕事とは別に調査をさせて欲しいとお願いをしました。
その時点では、何か研究上の確信があった訳ではなく、ただただじっくり見てみたいという思いでした。
そこで、本学日本画研究室の川嶋渉先生に、じっくりと観察した上で復元実験をしてみたいとお願いをしました。快諾いただくと、学生を伴って一緒に信楽に向かいました。

旭焼の釉層(現在は陶芸の森所蔵)


マスキングの方法(現在は陶芸の森所蔵)


川嶋先生との観察は、それはそれは楽しかったです。今までは焼物の作り方に目が行っていたのですが、どのように描いたのか、何を使って描いたのかを議論していったのでした。
そこで、確認できたのは
①白色の絵の具は用いず、マスキングをするなどして素地の白色を生かす
②下地の色とオブジェクトの境界ははっきりとしていてマスキングをしている
③マスキングは紙を用いたとみられるものもあるが、多くは筆で描いたものであり、蝋抜きが専ら使われた
④下地は絵の具の粒子が動いていないことから吹き付けをしている
⑤こういった技法を用いて日本画風の絵画を陶器に描いたものの上に貫入の入らない透明釉を掛ける(釉下彩)
というものでした。

観察の結果を踏まえて再現実験を始めた訳ですが、日本画専攻の大里真瑛子さん、中辻真尋さん、総合芸術学科の松浪千絋さんと同専攻を卒業して東京藝術大学大学院に進んでいた倉澤佑佳さんが参画してくれました。
旭焼の製作には荒木探令ら日本画の絵師が参画していたことから、川嶋先生の提案で私がワグネル先生に、川嶋先生が荒木探令に扮して実験を行うことにしました。要はワグネル先生は「こんなものが作りたい!」と思い、探令は「自分のノウハウならばこういったやり方でできる」と対応したのではないかという発想からでした。
実際には、当時の焼物は洋絵の具が輸入されており、かつそれまでの日本では用いられてこなかったテレピン(おそらくバルサム系のメディウム)を用いたという断片的な記録があることから、それだけを見れば日本画のノウハウとは明らかに異なるところではあるのですが、実際に従事したのが日本画家ならば、直輸入ではない技術のあり方があるかもしれないと感じていました。
ワグネル先生没後に記録を残した門下の人たちは、いずれも窯業畑の人であったので描くことに対しては些か具体性に欠けるところがありました。厳密にはどうだったのかわからないモヤっとしたところがあったのです。

ドーサ引きの実験
蝋抜きの実験

何枚もタイルを使いながら実験を進めていきました。
ごくごく簡単に述べると、膠をメディウムに用いて下地をしっかりとしておけば日本画のノウハウで十分描けるということがわかりました。

メディウムの違いによる検証
再現の様子

日本画のノウハウだけでできてしまった…
とはいえ、記録にはテレピン(おそらくバルサム系のメディウム)を用いたと記されている点についてはどのように理解したらいいものだろうか、という点が課題となりました。
ここまでの観察と再現実験については、参画した松浪さんが卒業論文にまとめられました。

ただ、課題は残っているので続く実験を進めようとした矢先、コロナ禍になり研究活動などに制約がかかったこともあり、しばし休止することになりました。
2023年度になると、さすがに再開しても良かろうということで、大学院に進まれた中辻さんに加えて油画専攻の濱明日香さんに参画してもらって、メディウムの違いが仕上がりにどれくらい影響するのかという実験を繰り返し行いました。

実験の一部

結論としては、乾燥させる時間を日本画よりもはるかに長く取れば描くことは可能だし、絵筆の手入れも面倒ではあるけれど不可能ではないという結論に至りました。つまり、残された製品と同様のものを描こうとすると、一連の動作では難しいということなのです。日本画の絵師たちが洋絵の具とバルサム系のメディウムを用いて、日本画風の絵を描けと言われるのはかなりのストレスがあったのではないかと想像します。もしかすると、こっそり使い慣れた膠をメディウムにしていたことがあったかもしれません。
とはいえ、記録が曖昧であることから、明快な答えを得ることができないのは自明のこと。時が経ってあの世でワグネル先生に会うことがあれば、その時にはわかるかもしれませんが、それは先のことです…

実態を明らかにすることはできませんでしたが、再現実験をすることによって実感できたことがあります。それは、ワグネル先生が望んだクオリティを維持するために行われた工程がいかに多かったかということでした。そのクオリティとは、白色に焼きあがる陶土の調整や貫入の入らない透明釉をはじめ、下地とオブジェクトとの境界をはっきりさせることや日本画の絵師を雇い入れて描かせるなどのこだわりを引き起こし、全ては日本画を焼物に描くという強い意志だったのです。
折りしも、欧米ではジャポニスムが隆盛し、フランスでは北斎や広重、楳嶺らの作品を粉本にしたセルヴィス・ルソーやセルヴィス・ランベールといったテーブルウェアが人気を博していました。これが受け入れられるのであれば、本格的な日本画を描いた焼物も同様に受け入れられるのではないか、とワグネル先生は思ったのではないでしょうか。
ワグネル先生の思い入れたっぷりの旭焼がどのように受け入れられていたのかを示す同時代の資料は殆どなく、また、先生没後ほどなくアール・ヌーヴォーが隆盛することにより潮流が変わっていき、旭焼自体がつくられなくなります。平たい表現になるのですが、まさに幻ということになるのでしょう。
僅かに残された製品からワグネル先生の「思い」と「時代」を大いに感じることができた再現実験でした。多くの方に関わっていただき、多くの刺激を受けました。心より感謝申し上げます。

鶴瓶桜に鶯図タイル(一部)復元

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