懐かしい人。
「なんでお前がここにいるんだ?」
いきなり売場で声をかけられた。「えっ?」と私は思ったけれど、その人が誰だかすぐに気が付いた。思わず私に、小さな笑顔がこぼれていた。
それは、とても懐かしい人だった。その方は、私がまだ新入社員の頃、同じ店で働いていた先輩だった。私よりも、四つくらい年上かな?年が近いこともあって当時、いろいろとお世話になっていた。とっくに忘れていたあの頃のことが、私の中で蘇っていた。
あの頃、先輩は私に対してとても厳しい人だった。新入社員である私の教育係みたいな存在だった。当時の私は、若すぎてか、いろいろとこの先輩と反発したものだ。
当時、こんなことがあった。先輩が「この仕事は、こういうふうにするものだ!」と言って私は叱られたのだ。それは、私なりに”これがいいんだ!”と思いこみ、勝手に作った売場だった。私は先輩に誉められるものだと思っていた。それくらいに自信があった。しかし、私はそれを頭から否定されたのだった。
そのときはじめて、私は先輩に大きく反抗したのだと思う。そのときの私は、”裏切られた”と、どこか被害者めいた気持ちになり、その言い方に、態度に、その先輩のすべてのやり方に、自分の存在すら否定されたような・・・そんな気持ちになっていた。
実に愚かな私だった。
「私は間違っていない!あなたが間違っているんだ!」気がつくと、私は声が裏返りそうなくらい激しく怒鳴っていた。いままでの怒りが、なんの理性も働かずに、ただ爆発したのだと思う。情けないほど単純な私だった。
そんな私を、先輩はただ黙って見つめていた。やっと喋った言葉は「勝手にしろ・・・」ただ、その一言だけだった。
とても意外な態度だった。いつもなら、説教されるものと覚悟していたから。それから1週間くらい口を聞いてくれなかったように思う。それほど、お互いに若かったのかもしれない。
しかし、今にして思えば、先輩は私に冷却時間をくれたのだと思う。人は、先が見えないほど、怒りの感情を抱いているうちは、なにも分からなくなるものだ。
結局は、私が間違っていたのだと今ならわかる。ひとりの力なんて小さなものだ。あの頃、それに気付いた私は、悔しくて悔しくて涙を流していた。先輩だけには気付かれまいと、小さく小さく泣いていたのだった。
そんな厳しい先輩に、私は1度だけ家に泊めてもらった思い出がある。それは一番忙しい年末の時で、もう夜中の12時過ぎまで仕事をしていたときのことだ。
今から帰っても、もう、あまり時間がなかった。(当時私は、通勤に1時間かかっていた。)そして、先輩が私にこう言ってくれたのだ。「俺の家が近いから、うちに泊めてやるよ」信じられないような言葉だった。そうするくらいなら、地を這ってでも自宅に帰りたい気持ちになっていたが、すでに疲れ果ててた私は、素直にそうさせてもらうことにした。
先輩は、ご両親と一緒に住んでいらしたが、その会話が、暖かな石油ストーブが、心までホッとさせてくれて、とても緊張しているのに、先輩の、売場では見せない小さな笑顔が妙にうれしかった。おまけに晩御飯まで私はごちそうになり、他人の家のやわらかな布団が、なぜかとても気持ちよかったのを覚えている。
・・・とはいえ結局、翌朝ふたりとも寝坊をして、遅刻しそうにはなったけれど。(あのときはお互いに笑ったなぁ。)
久しぶりに出会った先輩の印象は、穏やかな顔つきになったんだなぁと思った。随分と久しぶりの出会いは、そんなものなのかもしれない。ちょっと太ったのかな?顔まで丸くなっちゃって・・・。
先輩が転勤してから、風の便りさえなかったので、すっかり辞められたのだと思っていたけど、今は本社に勤務していて、その日はたまたま出張でこの店に来たそうなのだ。
あの頃のこと、今のこと、いろいろと話したいこと、聞きたいことがたくさんあった。何気ない会話を、ほんの5分程度したくらいだったろうか?
離れた売場から、私はお客さんに呼ばれてしまった。私は先輩に「ちょっと待っていて下さい」と言おうと思った。とても5分の時間では、これまでの長い空白のことなど話せはしない。
しかし、先輩は私が言うより先に、私にペコリとお辞儀をしてたった一言「もう行くよ。それじゃ、がんばってな・・・」そんな小さな一言と笑顔を残して行ってしまった。
心残りだった。もっともっと話していたかった。なのにもう、背中は見えなくなっていった。やがて、そのお客さんの接客を終えたあと、さっきまでいたその場所で、ふと、私はこう思っていた。
「がんばってな」・・・か。こんなにも長い年月の中で、こんなふうに励まされたのは、思えばはじめてのことだった。
「ありがとうございます・・・」
私は小さくお辞儀をした。
いつかこんな私の気持ちが
あの背中に届きますようにと。
最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一